江戸3

石川丈山・一行書
沙泉帯草堂

石川丈山(1583-1672)
大坂夏の陣において功名を得たが,家康の軍律に背き蟄居させられる。する
以後、諸国歴遊の後に京都一乗寺に居を構え、これを凹凸?と名付けた。
後に、
狩野探幽が描く三十六歌仙の肖像画を堂内に掲げたことで詩仙堂として知られるようになった。
三十六歌仙は綺羅星の如き中国の歌人、詩人達である。
蘇武-陶潛 謝霊運-鮑照 杜審言-陳子昂
李白-杜甫 王維-孟浩然 高適-岑参
儲光羲-王昌齢 韋応物-劉長卿 韓愈-柳宗元
劉禹錫-白居易 李賀-盧仝 杜牧-李商隠
寒山-霊K 林逋-邵雍 梅尭臣-蘇舜欽
欧陽脩-蘇軾 黄庭堅-陳師道 陳与義-曽幾
如何にも心憎い対の選択だ。

漢詩はもとより儒学・書道・茶道・庭園設計に精通した才人であった。
煎茶道の祖とも言われる。
彼の作庭した名園が京都に残っている。
詩仙堂、蓮華寺、一休寺方丈庭園、東本願寺別邸・枳殻邸池泉回遊式庭園。

中国趣味趣味三昧に徹し、其の書も唐様に長じる。



狩野探幽・書状
尊書忝拝見仕候然ハ古眼三幅壱対


狩野探幽(1602-1673)
江戸時代の狩野派を代表する絵師。狩野永徳の孫。
早熟の画家であり、11才時に駿府で徳川家康に謁見、江戸移住後、16才で幕府の御用絵師となった
二条城障壁画等が残る。



山鹿素行・一行書
誦詩聞国政

山鹿素行(1622-1685)
江戸中期の兵学者、儒者。
林羅山の門下で幼少より秀才の名を轟かせた。
大石良雄、吉田松陰等に其の思想が受け継がれている。



熊沢蕃山・書状
夜前はゆるゆると得貴意候

熊沢蕃山(1619-1691)
中江藤樹門下の陽明学者。
反骨精神は止まらず政権批判を行ったかどで蟄居謹慎させられ古河城にて生涯を閉じた。
反骨の儒者として藤田東湖、佐久間象山、横井小楠、橋本佐内等に追慕され倒幕の原動力となった。



井原西鶴・書状
めつらしき貴札忝拝見仕申候

井原西鶴(1642-1693)
江戸時代前期の浮世草子作者として名高い。
当初は俳人としても知られ、一昼夜にて作句数を競う「矢数俳諧」にて2万3千5百首を詠んだという。
後に、「好色一代男」で作者として名を成し、
好色物から「世間胸算用」等の町人物など、人間の欲望、享楽を描いた作品を多く残している。



松尾芭蕉・書状
白芥子や時雨の花の咲つらん

松尾芭蕉(1644-1694)
伊賀上野の人、伊賀藤堂家良忠の近従として仕えたが良忠夭折の後、
京都、江戸を転々とし、1682年に母を亡くした事を契機に、
蕉風の理念としての「わび」を実践習得すべく歌枕への旅を決意したといわれる。 
「野ざらし紀行」を皮切りに「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」
「奥の細道」等の名文を残す。



徳川光圀
人見又左衛門方迄芳翰

徳川光圀(1626-1700)
水戸藩第二代藩主。
黄門漫遊記の殆んどはフィクションとされるが、
殉死の禁止、蝦夷地の探検等は実際に行ったこととして知られる。
特に「大日本史」の編纂などの文化的な事業は高く評価される。
しかし、この文化事業が藩の財政難を招いた原因としての批判もある。



吉良義央
一筆申し入れ参らせ候

吉良義央(1641-1702)
忠臣蔵の悪役として著名であるが、
領地三河では、治水工事、新田開拓などの功で領民からは名君と慕われていたと言う。
職務柄、書をはじめ文人としての教養は群を抜いていたのであろう。
華麗で隙の無い書体だ。



大石良雄
追書以得御意候

9大石良雄
(1659-1703)
播州浅野家家老、忠臣蔵の主人公。
祖は藤原秀郷に遡る。
昼行灯との異名の通り通常は凡庸な人物であったらしいが、
お家断絶後の適切な対処などからその非凡さを覗える。



向井去来
昨八日之花墨忝

向井去来(1651-1704)
蕉門十哲の一人。
嵯峨野に落柿舎を営んだ。
私も京都に行くと此処に立ち寄るが、
現在も門前に畑が残っており嵯峨野の長閑さを楽しめる。
野沢凡兆と編集した「猿蓑」は蕉風の代表句集。



榎本基角
浅草川逍遥

榎本基角(1661-1707)
芭蕉十哲の一人。
芭蕉の第一の高弟と言われ、江戸俳諧では第一の勢力であった。
隣りに荻生徂徠が住んでいたことでも知られる。
「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」
芭蕉とは異なり酒を好み洒落者として知られる。
西鶴とも近く、赤穂藩士の大高源吾との交流もあったとされるが、
後者は逸話かもしれない。
如何にも粋人らしい書だ。



徳川綱吉
仁義

徳川綱吉(1646-1709)
江戸幕府第五代将軍。
凡庸であった四代将軍家綱の時代に低下した将軍家の権威向上に、
人材を登用し文治政治を推進する。
治安維持、経済政策などでも敏腕を発揮し善政を成している。
後に例の「生類憐みの令」などの悪政が施された。
綱吉の評価は二分されるが、
悪評の元になっているのは、忠臣蔵であり、黄門である。
いずれも俗説や後世に脚色された部分に因るところが多いと言う。
この字からも高い学識の有る人物だった事が覗える。



貝原益軒
久不通書信旦夕不勝招

貝原益軒(1630-1714)
福岡藩士として重責を果たした。
引退後、
著述に専念し著書には「養生訓」「五条訓」など教育書や本草紙、思想書の多くがある。
何故か子供の頃からこの名前を知っている。
教科書のせいか。



尾形光琳
昨日ハ御状忝拝受

尾形光琳(1658-1716)
装飾的大画面を得意とした「琳派」の代表的画家。
国宝「紅白梅屏風図」は代表作。
大胆明快なデザイン感覚の作風は
現代に至るまでの日本の絵画、工芸、デザインに大きな影響を与えている。



英一蝶
鶴飛千尺雪

英一蝶(1652-1724)
元禄時代の画家。
狩野安信に師事するも画風を異にして破門。
破門後、新鮮な画風で脚光を浴び名声を得る。
其角、芭蕉、紀伊国屋文左衛門などと親しい。
後に、諷刺画が幕府に忌に触れ(生類憐れみの令違反の説もある)三宅島へ流される。
大赦後、風俗絵師として大家をなす。
自ら幇間を名乗り遊郭に出入りしていたと言う。



近松門左衛門
世の人客に来たとおもへは

近松門左衛門(1653-1724)
父は越前藩士。
代表的な浄瑠璃・歌舞伎作者。
代表作の「曽根崎心中」は当時の町人社会を描き出した新しい形式、
世話浄瑠璃の最初の作品である。



新井白石
何堪今夜景不似青年晴

新井白石(1957-1725)
江戸時代中期の儒学者であり政治家でもある。
その学識は、歴史・地理・社会経済・言語・民俗・考古の広きに渡る。
新田の一族と伝えられる。
甲府の徳川綱豊に仕え綱豊が将軍家宣に成るに及んで、
家宣、家継に二代に渡り幕政の改革に尽力した。
所謂、正徳の冶である。
吉宗の代に政治的に失脚し、余生を諸学に専念した。
「折焚く芝の記」他多くの著述がある。
実直な性格が書に現れている。



荻生徂徠
花香欲酔人

荻生徂徠(1666-1728)
儒者。
柳沢吉保の側近として活躍するが吉保失脚に伴い野に下る。
赤穂浪士に対し私義切腹論を主張した事でも知られる。
後に吉宗の信任を得てその諮問にあずかった。
私塾を開き、徂徠派を形成した。
私塾の隣りに住んだ宝井其角の「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」の句が残っている。
豪胆な性格で多くの門弟を育てた。
唐様の書は自由奔放を極め趣き深い。



紀伊国屋文左衛門
茶のみちはたどるも広し武蔵野の

紀伊国屋文左衛門(1669?-1734?)
元禄期の豪商。
みかん伝説、上野寛永寺根本中堂造営、など逸話が多く残る。
其角と交友があり俳句も嗜んだ。
後に十文銭の鋳造に失敗し家運が衰えたと言う。



尾形乾山
詠杜時雨和歌

20尾形乾山
(1663-1743)
光琳の弟。
野々村仁斎に師事し陶芸を学んだ。
兄光琳の華麗な作風に対して、
落ち着きのある雅趣を好んだとされる。



大岡忠相・詠草
幾千世を重てもなを

大岡忠相(1677-1751)
吉宗に抜擢され幕府の重責を担った。
世に言う大岡政談のの多くは中国などに伝わる故事によるものが多い。
とは言え、享保の改革の中心人物で有った事は間違いない。
律儀な筆運びが彼の誠実さを示している。



徳川吉宗
忠孝館

徳川吉宗(1684-1751)
江戸幕府八代将軍。
江戸時代中興の名君と謳われる。
享保の改革で幕府の支配体制を建て直した。
禁制のキリスト教以外の洋書輸入を許可したことが以降の諸学の発展に繋がっている。




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引用文献
講談社刊:古筆から現代書道まで墨美の鑑賞
講談社:日本の書
東京書道研究院刊:書の歴史
講談社:日本書跡全集
大修館書店刊:漢字の歴史
平凡社刊:字統
平凡社刊:名筆百選
創元社:書道入門
平凡社:書道全集
講談社:現代書道全集
二玄社:書の宇宙
白州正子:西行
角田文衛:待賢門院璋子の生涯








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