元は今休止中?のパンクラスミーティングボード。
基本的に、団体がBBSを持ったらアンチの来襲は避けられないもので、私なんかから見ればよくイマまで我慢してたもんだ、てな感じだが。
時期は下にあるように1999年6月。
Devillock さんはその後あまり見かけず。
掛けねなしの力作で資料的価値も高く、ときどきここからのコピペをよく見る。



15YEARS

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Posted by Devilock on June 18, 1999 at 16:44:20:

>船木、鈴木、前田3人の間に何があったんですか?
>あの船木と鈴木が絶縁するってことは
>よっぽどのことだと思いますが。


<1984年>
2月
前田日明が、アントニオ猪木と新間 寿のUWF構想に巻き込まれ新日本プロレスを離脱。

4月1日
第一次UWF設立。同時期に船木優治が新日本の入門テストに合格。

<1986年>
1月7日
第一次UWF崩壊後、前田率いるUWF勢が新日本にUターン参戦。

出戻りのひとり藤原喜明による藤原教室に、船木や山田恵一(ライガー)等が参加。
スパーリングを通し、サブミッションの重要性、技術を学ぶ。
この頃からUWF勢は新日本の若手選手・船木に目を付ける。

<1987年>
11月19日
新日本後楽園大会、前田による長州 力顔面襲撃事件勃発。
これ以降前田に無期限出場停止処分が下る。

<1988年>
3月1日
前田が新日本を解雇処分となる。同月に船木は欧州遠征に出発。

5月12日
前田・高田延彦・山崎一夫等が第二次UWFを旗揚げ。

秋頃
前田が単身渡欧。新日本時代より注目していた船木と接触し、UWF入りを勧誘する。

<1989年>
4月6日〜10日
船木が欧州遠征より帰国。
二日間に及ぶ猪木・前田のトップ会談を経て、船木が新日本を円満退社。
併せて鈴木 実(みのる)のUWF移籍も発表される。

4月14日
UWF後楽園大会にて、船木と鈴木が移籍の挨拶。
鈴木UWFデビュー。安生洋二に敗れる。

5月4日
UWF大阪球場大会。船木の移籍第一戦はUへ同じく移籍してきた師・藤原。
試合には敗れるも、この日の大観衆に、その存在感・将来性をアピールした。

5月21日
UWFベイNKホール大会。船木はボブ・バックランド戦にてコーナーポストからの
ドロップキックを放ち反則負けに。当時、UWFルールへの抗議表明か?と話題になる。
船木はこの頃を
「当時の俺の行動は全て前田さんへのメッセージのつもりだった。」と後述している。

9月7日
UWF長野大会。この日より船木は「誠勝」に改名。
しかし大会後、練習中に尺骨を負傷し、船木は長期欠場へ。
しかし後年、この頃の欠場理由の真相が、海外遠征中のステロイドによる後遺症だったと
船木は自著で語っている。

11月29日
東京ドームにてU-COSMOS開催。UWFVS世界の格闘家・6VS6の異種格闘技戦を目玉に、
当時5年間無敗だったWKA世界キック王者モーリス・スミスの対戦相手に、
負傷中の船木の代役として鈴木が抜擢される。鈴木は幾度もダウンを奪われ大惨敗を喫する。

この頃から船木・鈴木とUWF上層部との不協和音が伝わる。
船木は「UWFはおかしいです。悪いところは悪いと書いて下さい。
そうじゃないと駄目になってしまいますから。」
鈴木は「上の人は誰も道場に来ませんよ。僕等と練習するのがいやなんじゃないですか。」
と共にマスコミに語る。

<1990年>
4月15日
UWF博多大会。船木の復帰戦、盟友・鈴木との伝説の初対決が行われる。
ともにレガースを装着せず、グラウンドレスリング主体の試合に終始し、「観客無視」と物議をかもす。
しかしこの一戦は、後に「パンクラスの原点」と評価される。
当時UWFの若手選手のひとりだった田村潔司は、リング下でこの一戦を凝視し、
「僕も船木さん、鈴木さんのようになりたい。この人達のようになりたいと思いました。」とコメント。
一方前田は、「あれは、奴等のマスターベーションや。」と批判した。

5月4日
UWF武道館大会。前田VS船木の初対決が行われる。
ノーレガースでキックを捨てた船木に対し、前田はキックで圧倒し、船木に貫禄勝利。
試合後リング上で両者が膝を合わせる格好で対峙、前田が何やら問い掛ける。
「今日は船木の好きなようにやらせた。プロというのは何かと考えろという話をした。」と前田はコメント。

5月28日
UWF宮城大会。前田VS鈴木の初対決。前田は鈴木に完勝した上で、
「しつこいところはいいんだけど、今はそれだけ。」とコメントする。

6月〜10月
船木は山崎・高田・藤原を連破し、実質上のUWFのエースに。

10月25日
UWF大阪城大会。船木は残る一角・前田との再戦に挑むも惜しくも惜敗。
前田は試合後に「船木はUWFにとって天使でもあり、悪魔でもある。」とのコメントを残す。
また前田は神UWF社長に対し横領疑惑等、徹底批判のコメントをぶちまける。

12月1日
UWF松本大会。出場停止中の前田の代役として、船木がメインを任される。
ウェイン・シャムロックとの白熱の初対決を制した船木は、
「前田さん、前田さん、リングに上がって下さい!!」とマイクアピール。
これに呼応した前田がスーツ姿でリングに上がり、全選手もリングに登場し、選手の大同団結を強くアピール。
しかし、これがUWF最期の日となってしまう。

12月4日
WOWOWとの契約、新スポンサーの確保、新経営スタッフの確保等を独自に行い、
新団体設立の目星を付けていた前田が、全選手を集めて経過説明を行う。
しかし会合に出席の選手の代理人から条件面でのクレームが噴出する。

12月7日
代理人等の第三者が入り込んだところでは選手自身の本音が聞けないとした前田は、選手のみでの会合を実施。
「一人で動いてわかりにくい事もあったかもしれないが、俺は仲間だと思ってやっている。
やってあげたという気もない。だから信用してくれ。一人でも信用出来ないという事だったらUWFは解散する。」
と力説するも、宮戸成光(優光)が「信用できない」と退席。これを追う形で安生も退席する。
この為、前田がUWFの解散を宣言する。

船木・鈴木・田村等の若手選手は
「若手だけでも付いていきますから続けましょう。」と前田を慰留するも
前田は「解散と言ったものは解散。」と、これを突っぱねた。
後年前田はこの解散宣言を「選手間の結束を取り戻す為のショック療法だった。」とコメント。

選手間での解散騒動の一方で、この日神社長が会見を開き、UWF全選手の解雇を発表。UWF消滅。

<1991年>
1月
前田を除く残党組は高田・山崎を中心に結束。前田抜きでの再旗揚げ構想を進めていく。
この経緯を経て、高田・山崎は前田宅を訪問し「独立」を報告。
前田はこれを了承し、高田一派に加わらなかった船木・鈴木との合流を構想する。

しかし既に船木・鈴木は藤原からメガネスーパー出資の新団体への勧誘を受け、藤原組結成に動いていた。
藤原の元へ船木・鈴木・冨宅祐輔(飛駈)が、高田の元へ田村・垣原賢人が付いていく事となり、若手はバラバラに・・・。
別れの日、船木が初めて子供のように泣いたと、垣原は後年コメントしている。

前田は船木との連絡を取るべく、船木の元へ何度も足を運ぶが、連絡は取れず。
この頃は、かなりの人間不信に陥っていたと前田は後述している。
一方船木も「俺達は前田さんに捨てられた。」とショックを隠せず、
「UWFのメンバーとは本当に心と心を別れてしまったんです。」
「今でもあの頃の事は映像として全部思い出せます。誰が何を言ってたかまで・・・。」と後述している。

この時期、前田は船木に一通の手紙を出す。船木は今もその手紙を大切に保管しているという。

2月20日
高田率いるUWFインターが旗揚げ。

3月4日
船木・鈴木参加の藤原組旗揚げ。

5月11日
前田はたった一人のリングス旗揚げ戦を行う。

10月4日
藤原組東京ドーム進出。藤原は前田にヴォルグ・ハンの貸し出しを求めるが、実現せず。
船木はこの日モーリス・スミスと対決するも、実質敗戦に近いドローに終わり、悔し涙を流す。
今大会では鈴木・シャムロック・高橋和生(義生)等がその強さを見せつけると共に、
藤原組長と主力選手との格闘技観・興行論に対する溝は深まっていく。

<1992年>
12月22日
藤原組分裂。メガネスーパーからの「月一興行では採算が取れない」との申し入れを受け、
それに対応しようとする藤原と、実験的要素を含んだ闘いを展開していた船木・鈴木等が対立。
会議の席上、不満をぶちまける鈴木に対して、「誰がボスなんだ!」と藤原が激怒。
両者は平行線をたどり、船木・鈴木以下の選手は藤原組を離脱。
藤原の元には当時は新人であった石川雄規のみが残留した。
これにより船木・鈴木・高橋等は10ヶ月もの浪人生活に入る事となる。

前田は藤原組分裂に対して、
「みんなを喰わせていくべく努力をしていた藤原さんが可哀相。」としながらも、
「格闘家にとって20代というのは極めて大切な時期。この時期に現役から遠ざかっているというのは、
船木にとって大変な損失なので、是非とも助けたい。」と発言。
これに対して船木は、「前田さんからはたくさん電話がかかってきたけれども頼る気はなかった。」と後述。

<1993年>
2月
左膝手術の為入院中の前田は、マスコミを通して
「旗揚げするなら第三者が入り込んできて、色々トラブルが発生するだろう。
俺の持ってるノウハウなら全部教えるからいつでも訪ねてきて欲しい。」と船木に対して呼び掛ける。

5月16日
パンクラス設立記者会見。

6月
船木と鈴木がオランダへ。リングス・オランダ総帥・クリス・ドールマンの道場を訪問する。
この時、ドールマンがリングス参戦を念頭に練習させていた元キックボクサーのバス・ルッテンに出会う。
ルッテンに注目した船木・鈴木はルッテンのパンクラス参戦を交渉。
ドールマンから連絡を受けた前田は、配下選手にチャンスをあげたいとするドールマンの意向を汲み、
ルッテンのパンクラスとの契約を黙認した。

9月21日
東京ベイNKホールにおいてパンクラス旗揚げ。
秒殺や既存のプロレス団体には見る事のなかったファイトスタイルが、内外に衝撃を与える。

10月14日
パンクラス露橋大会にてリングス・オランダ支配下選手、エリック・エデレポンスの出場が発表されていたが、急遽中止となる。

11月8日
パンクラス神戸大会。鈴木は不利なキックルールでモーリス・スミスに挑むも惨敗。
これに対して前田は、「プロとしてやっちゃいけない事」と辛辣なコメント。

11月27日
全日本キック・ベイNKホール大会。船木がスミスにリベンジ。
スミスをリングスに招聘するべく、今大会に視察に来ていた前田の眼前で、船木は劇的な勝利を飾る。
この試合で前田は船木を大絶賛し、
「旗揚げでただでさえ頭の中ゴチャゴチャになっとるはずやのに、横で鈴木がいらん事をして、
尻拭いまでやらなあかんそんな状態で、よくあれだけやれたと思う。今日ばかりはUWFを解散した事を後悔したよ。」とコメント。

<1994年>
1月21日
リングス武道館大会。メガバトル・トーナメント・93に優勝した前田は、優勝インタビューで
「このリング上でやるのは格闘技であって、残念ながらプロレスではありません。そう言った意味で、
パンクラスでもインターでもみんな頑張ってますんで、できればこのリング上で、一緒にね。
誰が一番かって決めればいいと思うんです。」と述べ、パンクラス・Uインターに交流を呼び掛ける。

これを受けて船木は週刊プロレス誌上で、「前田さんがいる限り交流戦はない。」
「二度とパンクラスや自分達の名前を出さないで下さい。」と返答。
その号の表紙には、「船木、前田に絶縁状!」というコピーが踊った。

11月3日
新横浜のホテルのロビーで前田と船木が偶然にも鉢合わせ。
前田は「船木は“絶縁なんてこと俺言ってないです”と言ってくれた。」と週刊ファイト紙に語る。
一方船木は、その事実を認めるも、
「なんか前田さんが話し掛けてもらいたそうに、ずっと立っているんで、仕方なくこちらから話し掛けたんです。
そしたら世間話でもすればいいのに、いきなりビジネスの話とか始めるんで呆れちゃいました。」とコメントし、
両者の認識の違いを暴露する事となった。

<1995年>
2月
Uインターの田村がNUMBER誌上で、「自分はパンクラスのいうハイブリッド・レスリングに近い事をやっていると思う。
Uインターで思い出す言葉はプロレス。」と発言。
これを境に、Uインターは新日本との対抗戦路線へと突入し、それに背を向けた田村のパンクラス入りが噂される。

4月2日
ベースボールマガジン社主催の16団体のプロレス団体が参加の「夢の懸け橋」が東京ドームで行われる。
今大会に参加の前田と鈴木がニアミス。

12月
モーリス・スミスのリングス移籍が決定。これに対して船木は記者団との談話の中で、
「スミスにとってお金は重要なんでしょう。リングスはギャラが高いらしいという話を聞きました。
うちは貧乏ですから。」とコメント。
これに対してリングスサイドは、「スミスはそもそもパンクラスの契約選手ではなく、全日本キックがパスを所有している選手。
パンクラス参戦時点から、パンクラスで何戦かしたら次はリングスという事が決っていた。断じて引き抜きではない。」と発表。

<1996年>
1月24日
リングス武道館大会。スミス、リングスデビュー。しかしリングスジャパンの高阪 剛に秒殺される。

前田はゴング誌のインタビューに
「パンクラスに関しては相変わらず頑張っているんじゃないかと思ったよ。でもパワーを付ける事をどうしても選択せざるを得ない
状況になってきたんだなって感じがするね。」と好意的なコメントを残す。

2月19日
リングスオランダ大会。初となるリングスオランダ大会に、ルッテンが出場を希望するも
パンクラスに迷惑をかけないよう、前田の一存で出場がストップとなる。

6月1日
5月末の契約切れをもって田村がUインターを離脱。リングスに入団する。

6月25日
パンクラス福岡大会。船木が記者団に田村リングス移籍について、
「鈴木は田村が絶対にパンクラスに来てくれると信じていた。それがこういう事になって本当に落ち込んでいる。
一言あるべきじゃなかったか」とコメント。

一方の田村は、「どこでも良かったんですけど、リングスが僕を一番必要としてくれたんで。」と述べる。

9月
週プロ誌上のインタビューにて柳澤龍志が田村戦を希望する。

11月22日
リングス大阪大会後のインタビュー、前田はUインター経営不振についてのコメントを求められ、
「一ヶ月に一回しか興行を打てない我々のような団体は、プロレスに比べて経営基盤が脆弱。
交流戦という事ではなくても外国人選手の貸し出しや、若手同士の技術交流というところから始めて、
協力し合っていけないか。」と提言。

一方の船木は、「そういう意図はない。」と淡白な反応。

<1997年>
1月
船木がゴング格闘技誌のインタビューで、「外との交流は考えている。リングスは対象外とは言い切れないが、
違和感が大きい。」「未だにヒールホールドを禁止していない団体は信じられない。」と発言。
ただしリングスの前田以外の選手、特に山本宜久は高く評価しているとも発言。

鈴木は週プロ誌上で、「前田さんだけじゃなく、田村や山本がいるうちはリングスとの交流は考えられない。」と発言。

2月22日
パンクラスNK大会で、パンクラス尾崎社長が川崎元リングス広報部長を発見。
控え室にて「ガイ・メッツアーを引き抜き」についての確認に詰め寄る。
船木はこれを受け、「外から取って来るのではなく、自分のところで育てればいいんです。」とコメント。

2月26日
リングスは「メッツアー引き抜き疑惑」に対して、緊急会見を開く。
「メッツアーとコンタクトを取ったのは、もうリングスを退社している川崎氏個人であり、
前田も他のフロントも関係ない。」と説明。
川崎氏も「私はメッツアーに頼まれて日本にいる間チケットの手続きやガイドをしただけ。
向こうから打診はあったが、こちらから誘った事はない。」と徹底反論。

これに対しパンクラスは、「川崎氏側から引き抜きの話があった。川崎氏は嘘つき。」という
メッツアーの直筆メッセージを後日公開。

4月27日
パンクラスとライオンズ・デン契約切れ。
パンクラス・ベイNKホール大会にて、船木は「法外な値段を提示された。」と、契約更新を行わなかった理由を説明。

6月
パンクラスとの契約が切れたライオンズ・デンよりリングスに提携の打診が来る。
7月大会にジェリー・ボーランダーの参戦が発表されるが、ボーランダー側が直前キャンセル。

前田のパンクラスに対する対応が急変。紙のプロレス誌上にて、「第二次UWFでは俺と高田と山崎の三人が、
どうやってまとめていくか、みんなを喰わせていくか必死で考えてやっていたし、若手の給料を私財から出し
たりもしていた。それを何もしなかった奴がぐずぐず文句言うな。」
「早めに引退とか甘えた事言うな。パンクラスは船木の団体なんだから、泥を被って経営努力をしろ。」
「海外ではシュートファイティングと名乗って、自分達の事を絶対にプロレスと言わないのはなんでや。
それなら国内でもプロレス団体ですとか言うのをやめろ。」等、
過激な発言が飛び交う。

7月
時を同じくして全日本キックのプロテストに合格したパンクラスの柳澤とリングスの長井満也が、
紙プロ誌上のインタビューで激突。
「キックの試合であたったら後悔させてやりますよ。」との長井のコメントに対して、
柳澤は「長井は僕よりも格下。やる価値もない。もしやるんだったら、前田との完全実力主義の試合をする権利を
くれないとね。」と対抗する。

8月13日
リングス鹿児島大会終了後、前田が爆弾発言。
「パンクラスはちょっと許せない事を言っている。邪魔なので潰したい。男の子なら口じゃなくリング上で勝負しろ。」
と発言。前田憤慨の理由としてSRS番組スタッフの関与や、裏でのタブーな発言等、
様々な憶測がマスコミを通して報道された。

9月5日
リングスはライオンズ・デンとの正式提携及び、フランク・シャムロック、ピート・ウィリアムスの参戦を発表。
交渉期間は「潰す発言」とは時期的に無関係であり、引き抜きではない事を強調した。

9月6日
パンクラス・ベイNKホール大会。高橋が前田発言に触発され試合直後にリング上にてマイクアピール。
「最近うちを潰すとか言ってる奴がいるけど、俺がそいつを殺す!」と、真っ向から前田の喧嘩を買う。

全試合終了後の緊急会見、尾崎社長は「許せないような事なんてどういう事か全くわからない。いつ。どこで、
誰が言ったのか明らかにして欲しい。」とコメント。
鈴木は「誰か怒らせるような事言ったんですか?」と記者に逆質問。
船木は「僕は前田さんとは絶縁しているのでやりません。潰すんなら外国人でも日本人でも
どんどん引き抜いて下さい。」と冷めた対応を取る。

これに対して前田がファイト紙にコメント、
「高橋?ああいう選手は好きだね。ああいう元気のある選手は本当にいいよね。
それよりも、鈴木!お前が出て来んかい!船木や鈴木が出て来ると思ってたら、あいつらは無視やろ。」
と、当時長期欠場中であった鈴木に対しての挑発的な発言をする。
その後前田からは「ボンクラス発言」「パンクラス参戦外国人の経歴偽称発言」「船木・鈴木はコトナ」
と言った過激発言が続出する。

9月16日
パンクラスが前田問題に対して緊急会見を開く。
第三者のリングである全日本キックでの前田VS高橋を提案。10月29日の後楽園大会までに解答を待つと発表。
高橋は「鈴木さんが目的なら最初から“鈴木を潰す”でいいんです。パンクラスを潰すと言われた以上、
僕も一応株主ですから会社がなくなっては困りますんで。トーナメントがあるからとかは理由にならないでしょう。
喧嘩はもう始ってるんです。腹が痛いから今日は勘弁してくれは、通用しないでしょう。」と、闘う姿勢を崩さない。

10月11日
高田がヒクソン・グレイシーに惨敗を喫した、PRIDE.1が開催された東京ドームで、前田と高橋がバッティング。
周囲に緊張が走る。高橋は前田とのバッティングを想定して、ファウルカップを装着していたらしい。
前田に同伴していた山本宜久の「今日のところは引いて下さい」との仲介に事無きを得る。
前田はこの時を「なんかジーッとこっちを見てるから、なんかサインを欲しいのかなってね。
ファンだかわからん格好すんな。」と、後述している。

10月14日
リングス後楽園大会。試合終了後、坂田 亘が
「僕はパンクラスを認めている。凄く頑張っていると思う。マスコミや色々な誤解が重なってしまって、
今はこんなになってしまっているが、話せばパンクラスさんもわかってくれるはず。」とマスコミに訴える。

10月29日
パンクラス後楽園大会、この日高橋は金 宗王を秒殺。全試合終了後、船木・高橋・尾崎社長がリングに登場し、
前田からの返答がなかった事を報告。これを持って前田及びリングスとは今後一切関係を持たないとし、「絶縁」を発表した。
高橋「僕は本当に前田選手と闘えると思ってました。喧嘩を買って、こんなに馬鹿な思いをしたのは初めてです。」
船木「二週間前にもし高橋がやられたら次は俺が行くと、高橋に伝えました。」
高橋「それは絶対にないです。」
パンクラス側からはリングスに対するスタンスに、ひとつの答えが出された。

11月29日
VTJ97、エンセン井上VSフランク・シャムロック。
フランクのセコンドに絶縁中のパンクラス・柳澤、リングス・高阪が付く。
12月21日のUFCJにも同様にふたりはフランクのセコンドに付いた。

<1998年>
8月
高田と船木がスカイパーフェクTVの対談の為、8年振りの再開を果たす。

12月
パンクラス・高田道場の業務提携が発表される。
記者会見にて、「パンクラスとリングスの橋渡しになれればいい。」と高田がコメント。

12月19日
パンクラス・ベイNKホール大会に、6月にはリングスに出場した高田道場・豊永 稔が参戦。

<1999年>
1月8日
ニューオリンズで行われたUFC18においてルッテンVS高阪のドリームカードが実現。
ルッテンが延長をTKOで制す。

2月21日
リングス横浜大会。前田がアレクサンダー・カレリンとのラストマッチに臨み。遂に引退。

3月1日
パンクラス長谷川悟史が急逝。
前田や高田を始めとする、各界より弔電・献花が届く。

3月〜4月
パンクラスは高田道場に続き、大道塾、和術慧舟會東京本部との業務提携を結び、総合格闘技界の核となる。

5月22日
リングス有明大会にて、成瀬昌吉が中量級日本一決定戦を提唱する。
「特にパンクラスの選手、闘いましょう。」と、パンクラスへ向けて対戦への意思表明をする。

6月20日
リングスオランダ大会にて、パンクラス・リングスのランキング、ともに1位同士である
セーム・シュルトとギルバート・アイブルの対戦が予定されている。

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