分厚く塗りたくった化粧をやっとの思いで剥がすと、その下にはいつ
もの白い顔があった。
人は彼女の事を「醜女」と呼んだが、彼女は決して醜女などではなか
った。
彼女は水鏡にうつった自分の素顔を見て、満足そうに微笑んだ。
ごくわずかの人間しか、自分の素顔を知らない。
彼女の夫であるあの人も知らないだろう、彼女の素顔。
なだらかな額、弓形の眉、切れ長の目は少しばかりつりあがっている
が、賢者の光をたたえる瞳が彼女を少しもきつそうには見せなかった。
大きくも小さくもない口と、どちらかといえば薄い唇、顎は流れるよ
うな美しい線を描いていた。
それらが上手い具合に釣り合いをとり、白い小さな顔に乗っかってい
た。その釣り合いは寸分の乱れもなく、ある種完璧とも言えた。
名前に恥じぬ、月のような女だ。
この素顔を知った人たちはどのような顔をするだろう。
思い描いて、女はクスクスと笑った。
「月英様?」
幼さが抜けきらない声を聞き、女は振り返った。
「尚香様…………」
振り向けばそこには呉より主君である劉玄徳に嫁いできた娘、孫尚香
が立っていた。
女は肩の力を抜く。
「やはりここにいらしたのですね」
綺麗な蜀の言葉。
「ええ、いつものとおりですわ」
尚香よりかけられた言葉に対し、月英は微笑みながら返す。
二言三言、言葉を交わすと、突如二人は笑い出した。
「合格ですか?月英様」
「ええ、合格ですよ、尚香様。努力されましたね」
「それほどの事じゃありません」
「それでは何故、女官の前ではあのように呉訛りが強くいささか乱暴な
物言いをされるのかしら?」
長年呉で過ごしてきた尚香の、言葉の訛りを直すため、尚香には徹底
的に発音や言葉そのものの矯正が課せられていた。
しかし、いつまでも向上しない尚香の言語能力に女官たちが陰口を叩
いているのを月英は知っていた。
その尚香が本当はとうの昔に蜀の言葉を話せるようになっていた事を
知れば、女官たちはどんな顔をするだろうと思い浮かべて、月英は再び
くつくつとのどの奥で笑った。
「私は、本当に性格が悪い」
ぼそりと吐き出された月英の言葉をどう聞き間違えたのか尚香は、恥
ずかしそうに頬を染めて、そっぽを向く。
「駄目だっていわれるとしたくなるんだもの」
そんな子供じみた言い訳と、しぐさに、月英は思わず噴出してわらっ
てしまった。
「そうですね、確かに尚香様のおっしゃる通り」
自由奔放を通せた彼女は祖国では愛されていたのだな、と月英は目を
細めた。
「蜀の女官たちは少々口うるさいようですね」
「そう!口うるさいですよね!?何だってそんな事まで言われなくちゃ
ならないのですか!?」
「ここで腹を立てても仕方ありませんよ」
「うーん、やつあたりって事で許してください」
「あら、そんなに腹を立てたなら、面と向かっておっしゃればよかった
のに」
尚香は月英の言葉に目をまるくして、しばし月英を見つめた。
そして、かぶりを振る。
「悔しいけれど、今は面と向かって言葉を返すわけにはいきません」
尚香ははかなさなどない、真っ直ぐの視線を月英に向け、笑った。
月英も柔らかな微笑を返す。
「…………だから私はあなたを気に入っているんです」
もし尚香が呉の人間でさえなければ、もし尚香が殿に嫁いできたので
なければ…………と意味のない事を考えてしまう程、尚香の事を気にい
っていた。
呉と蜀がいつ仲違いするかはわからないが、いずれ遠くない日にやっ
てくる。その時、尚香は呉に連れ戻されるだろう。
教えた技術が呉で利用されるのが怖いのではない。全てを伝えぬうち
に連れ戻されるのが不愉快だったのだ。
「おしい…………」
月英の化粧が仮面である事にいち早く気づいたのだ、頭が悪い事など
決してない。
そしてそれに気づきながら誰にも告げていないという、優しさもいい。
ただ惜しむらくは、その天真爛漫さが時折単純さと入れ替わってしま
う事だろう。
「そこもよさだといってしまえばおしまいですけど」
「え?月英様何か?」
「…………今夜は少し話しこみ過ぎましたね」
空を見上げる月英につられて尚香も空を見上げた。
大きな月が空に浮かんでいた。
「もう、こんな時間だったのですね」
尚香は立ち上がる。
月英は水鏡をみながら再び化粧を顔の上に乗せ、醜女と変化し立ち上
がった。
「さあ、尚香様参りましょう」
「はい、月英様!」
月英の後をついてゆく尚香。
二人はそれぞれの得物を手に、歩き出したのだった。
二人が向かった先は、二人だけの秘密である。
「いい加減にしなさいよね!この人外生命体!!」
「殿の寝所に透過してくるとは!恥を知りなさい、恥を!」
城のある一室がやたらと騒がしくなったとか、
あちらこちらが破壊されていたとか、
怪しげな掛け声が聞こえてきたとか、
白い光線が乱射されたとか、
窓から縄で縛られた誰かが突き落とされた…………というのはどうで
もいい話である。
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