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図解でわかる「南京虐殺」の虚構
溝口 郁夫
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1.はじめに
1937年の日本軍の南京城攻略に伴う、いわゆる「南京事件」の真実を広く世に知らせるには、一目で見て理解できる表現方法も必要である。
本稿では「南京虐殺」は存在しなかったことを既往の資料を用いて図解するものである。
QアンドA形式で説明したい。
2.「南京虐殺」虚構の根拠に関する問答
Q1.南京事件の死者数はどのように変化して来たのですか。
A.図-1を見てください。南京事件の死者数は大きく4つの段階を経て増加してきました。30万人虐殺などは戦後の東京裁判から言われはじめたものです。

この4つの発展段階を、冨澤繁信『南京事件発展史』(展転社)を参考に補足します。
@第一段階の「原初的南京事件」
アメリカ人宣教師たちの安全地帯を中心とする南京の行政権確保ための道具であった。この段階の事件は「原初的南京事件」と呼称されています。
当時、南京の欧米人は南京日本大使館に「市民重大被害報告」を提出していますが、殺人関係の事件件数は26件で人数は53人(『南京事件の核心』(83頁))に過ぎません。これらは全て目撃者のないものでした。なお「市民重大被害報告」等をベースに昭和14年に中華民国の公式見解である「南京安全地帯の記録」が出版されています。表題が示すように、「南京安全地帯」の記録であって、「南京」の記録でないことに留意していただきたい。
つまり「原初的南京事件」の舞台は南京城内の安全地帯なのです。
A第二段階の「ベイツ南京事件」
劣勢にあった中国国民党政府は、諸外国の同情を引くための戦時宣伝に欧米人(英国の「マンチェスター・ガーディアン」の特派員ハロルド・ティンパーリ記者、南京大学ベイツ教授等)を利用します。
戦時宣伝の影の主導者であった南京大学教授ベイツの名からこの段階の事件は「ベイツ南京事件」と呼ばれています。
南京陥落七ヶ月後の一九三八年七月に、ティンパーリ記者編集の『戦争とは何か―中国における日本軍の暴虐』が出版され、そこには、四万人近くの非武装の人間が南京城内または城壁付近で殺され、そのうち約30%はかつて兵士になったことのない市民であった、と書かれています。この段階で南京事件概念の骨組み ができあがりました。
B第三段階の「東京裁判南京暴虐事件」
戦後、アメリカは日本を精神的に再起不能にするために南京事件を利用し始めます。この段階は「東京裁判南京暴虐事件」と呼ばれます。ここで初めて
広島・長崎の原爆死者数(21万〜22万人)に匹敵する規模の数字が登場します。
裁判の過程で30万人、34万人などの虐殺数が登場しますが、昭和23年11月11日の東京裁判判決で次のように朗読されました。
後日の見積もりによればの間に南京とその周辺で殺された一般人と捕虜の総数は二十万以上であった・・・。
C第四段階の「朝日新聞(中国共産党)南京大虐殺事件」
中国政府の対日本外交、アジア外交を有利に展開するために南京事件は使われました。これと呼応した朝日新聞は自社の地位確保のための道具としました。昭和46年朝日新聞は『中国の旅』を連載し、そこに次のように書きました。
<(虐殺は)翌年二月上旬まで二ヶ月ほど続けられ、約30万人が殺された(『中国の旅』259頁)>
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