Q9.朝日新聞南京大虐殺事件はどのように波及しましたか。
A. 朝日新聞が『中国の旅』で南京事件を取り上げるまでは、日本国内で南京虐殺などで騒ぎ立てる人はいませんでした。本多勝一氏や朝日新聞社が関係した南京事件に関する著書を調べてみますと、全て昭和47年以降のものです。最初は「中国の旅」などとと題していますが、徐々に「南京大虐殺の現場へ」などと本来の目的「大虐殺」を看板にするようになります。
これに呼応するかのように、岩波書店の広辞苑も「南京事件」を「南京大虐殺」と表現するようになります。
昭和20年、30年代の「広辞苑」に全く記述されなかった南京虐殺のことが、昭和50年代に突然登場する背景には、朝日新聞が「南京大虐殺」と呼称し始めた影響と考えられます。
その後、「南京虐殺はなかった」との立場から数多くの著書、論文が発表され、今では大虐殺はなかったとの見解が主流になってきています。
例えば、中学校の歴史教科書から虐殺30万人は消えようとしていますし、虐殺ではなく南京「事件」と呼称する教科書もあります。
3.むすび
南京虐殺がなかったことは、南京城内の人口が減少せず、むしろ増加していることの例証を示せば、分かる人には瞬間的に分かります。しかし先入観念のある人には、視覚(映画、アニメ、写真、図表)に訴えることが有効な手段ではないでしょうか。
このたび、映画「南京の真実(仮題)」の製作が発表されましたが、これは映像であるため「南京虐殺」否定の有力な宣伝材料になると確信しています。
最後に、昭和20年9月上旬(東京裁判開始前)、米国のマーシャル元帥は自著『勝利の記録』の中で日本軍の行った残虐行為等について次のように記述しています。
<スパーツ大将はポッダムから、日本の選ばれたる四都市の一つの工業施設に対し、八月三日以後何時なりとも、天候及び目標を自由に選び原子爆弾を投下すべしと云う命令を受理した。彼は軍事都市広島を選択した。
八月六日、遂に爆弾は投下された。その結果については諸君が既に承知の通りである。(中略)
八月九日、我が戦略航空隊は第二の原子爆弾を投下した。(中略)
八月六日の週間は、紛争の連発する中で第一弾を放ち、遂に第二次世界大戦へと進展せしめた国民にとって余りにも唐突な異変の週間であった。日本は奉天、上海、真珠湾、バタアンにおける悪逆に対し充分なる償ひをさせられてゐるのであつた。敵の地位は全く絶望的となつた。
八月十日、ここに日本政府はポッダム宣言の一般条項を受諾し、和平を乞うに至つたのである。>
見事に「南京」が抜けて落ちています。恐らく、広島・長崎の原爆による民間人大虐殺の代償に、東京裁判開始前に米国が思いついた謀略が「南京大虐殺」のだったのでしょう。 以上
【参考文献】
@東中野修道「南京大虐殺は戦争プロパガンダだった」(日本「南京」学会会報第21号)
A東中野修道「南京特務機関(満鉄社員)丸山進氏の回想」『南京「虐殺」研究の最前線』H14年版(展転社)
B丸山進「南京事件の真相(要旨)」(自筆メモ)
C東中野修道・小林進・福永慎次郎『南京事件「証拠写真」を検証する』(草思社)
D冨澤繁信『南京事件の核心』(展転社)
E冨澤繁信『南京安全地帯の記録』(展転社)
F冨澤繁信『南京事件発展史』(展転社)
G『週間新潮』平成19年3月8日号,47頁
H本多勝一『中国の旅』(朝日新聞社)
I本多勝一『中国の日本軍』(創樹社)
11マーシャル元帥『勝利の記録』(マンニチ社出版部)
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