映画「ジョン・ラーベ」の正体
「史実を世界に発信する会」事務局長 茂木弘道
独・仏・中合作の映画「ジョン・ラーベ」(フローリアン・ガレンベルガー監督)が完成し、去る4月2日ドイツで封切られた。4月の28日には中国でも上映された。相当な制作費をかけた作品のようであるが、これをノンフィクション映画と見たらとんでもない間違いである。それは、この映画のエンディングの字幕「30万の中国人が虐殺された。今日も日本の右翼勢力は事実を認めていない」が象徴的に示している。その詳しい説明は後に行なうが、何よりもラーベは『ラーベ日記』の中で実はたったの一件も自分で殺人を見たと書いていないのである。それが、何と30万人虐殺の断定に至ってしまうのである。最初から予断による結論ありき、ということであり事実をベースとしたストーリーならこんなことはありえないはずである。ノンフィクションでないばかりか、芸術的なフィクションでもなく、はっきり言って「宣伝映画」と言ったほうが実態に近いであろう。
何故ラーベが安全区の委員長に選ばれたのか?
ジョン・ラーベは日本軍の南京攻略が迫った1937年11月に在南京外国人15人(米人7人、英人4人、独人3人、デンマーク人1人)で組織された南京安全区国際委員会の委員長であった。南京の一角に中立地帯を作ってそこに市民を収容して、市民が戦渦に巻き込まれるのを防ごうという趣旨で安全区は作られた。3.86平方キロと、ニューヨークのセントラルパークほどの広さで、境界の目印はあったが、鉄条網もないものであった。日本軍は、これを中立地帯と正式に認めてほしいという国際委員会の要望に対して、安全区が防壁もなく、兵士の侵入を防ぐ手立てを持っていないために、正式にはこれを認められないと回答した。但しそれを尊重するという態度であった。
実際に日本軍が南京を占領した時にこの安全区には制服を脱ぎ捨てた大量の兵士が潜入しており、大量の武器弾薬が隠されていることを発見する。そればかりではなく、高射砲など戦闘施設がこの安全区には設置されており、とても中立地帯の条件を満たしていないことが明らかになるのである。
それはともかく、南京市内に残された20万の市民は、この狭い安全区に集合させられた。12月8日には唐生智防衛軍司令官によって「全ての非戦闘員は国際委員会管理下の安全地帯に集結しなければならない」という命令が発せられた。特別許可証のない限り、非戦闘員の安全地帯外での移動は一切禁止された。12月3日に逃亡してしまった馬南京市長(食料ほかを委員会にあずけた)に依頼されてその20万人市民の面倒を見たのが国際委員会である。発足時の委員の大部分はアメリカ人、イギリス人なのだが、何故ドイツ人ラーベが委員長に選ばれたのかを知っておくことは当時の状況を理解する上で極めて大事である。
ドイツ軍事顧問団
日本とドイツが三国同盟を結んでいたので、日本との関係を考慮してドイツ人のラーベが委員長に選ばれたのだろうと推測する人が多いようだが、これは全く見当はずれである。たしかに、1936年11月に「日独防共協定」が締結されている(その後イタリアも加盟)。しかし、これを後の三国同盟(1939年9月締結)と混同してはいけない。あくまでもコミンテルンの世界共産主義運動に対抗するための防共協定であり、ドイツは中国にもこれに加盟させようと工作をしていた。日本がこの協定によって国策を縛られていなかったことは、1938年12月6日に「ユダヤ人対策要綱」を採択し「ユダヤ人差別せず」を正式な国策としたことを見ても分かることである。
一方ドイツは中国に対しては深くコミットしていたのだ。1928年以来軍事顧問団を中国に派遣していたが、1934年には元参謀総長のゼークト将軍が4人目の顧問団長に就任し、国民政府軍の近代化を推進した。これを引き継いだのが、ファルケンハウゼン将軍であり、近代化された60個師団編成を目標に掲げると主に、上海周辺のトーチカ網構築を指導した。この主目的は対日戦であり、1936年10月1日には漢口と上海の日本軍攻撃計画を蒋介石に進言したのである。1937年の春には、上海攻撃案として改めて提出した。
軍事顧問団は国民政府軍の近代化の指導に止どまっていたわけではない。ドイツ製武器の売り込みはいうに及ばず、ドイツの重化学工業製品の売り込みにもかかわっていた。これはドイツ産業連盟がらみで行われるようになり、重化学工業育成支援にまで及んだ。中国はドイツの大のお得意先となっていたのである。ドイツ最大電気メーカのジーメンスもその中心企業であった。ジーメンス南京支社長であり、中国滞在の長かったラーベが委員長に選ばれたのは、蒋介石政権と軍事経済面で深く結ばれていたためなのである。
安全区で何が起ったのか?
12月13日、南京は陥落し日本軍の一部が入城する。南京防衛軍が撤退した南京に入城した日本軍は静寂の支配する街に出会い戸惑った。住民が見当たらないのである。その理由はすぐに判明する。住民はことごとく、市内の一角(市の8分の1ほどの面積)の安全区に集中していたからである。従って、南京市内に日本軍はなだれ込み、人と見れば殺害し、死体と血の海の市街となった、などと「東京裁判」で描かれているのは全くのデタラメである。
国際委員会は、進駐してきた日本軍宛に12月14日付の手紙「南京日本軍司令官への手紙」をラーベ委員長名で提出しているが、そこには「私どもは貴砲兵部隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派なやり方に感謝し、安全地帯の中国人一般市民の保護に関する今後の方策について貴下との接触を確立するために、この手紙を書いております。」(注[1])と記されている。
ではその後、安全区では何が起ったのだろうか?殺人の狂乱が起こったのだろうか?
国際委員会は、日本軍に対して様々な要求とともに、日本軍が起こしたとみなす不法行為を住民の申告をもとにタイプアップして、ほとんど毎日のようにこれを英文文書で日本軍に提出した。そのコピーを主体に、いわば国際委員会の2ヶ月にわたる活動記録が『南京安全区の記録』(Documents of the Nanking Safety Zone) としてまとめられ、1939年に上海のKelly & Walsh 社から出版されている。重慶政府の国際問題委員会(The Council of International Affairs, Chungking)の監修の下、外務省の顧問である徐淑希(Shuhsi Hsü)が編纂したものである。従って、国民政府としては自分に都合がよいと考えて発行させたものということになる。逆に言えば、日本側にとってはかなり不利なバイアスがかかっている内容、と考えてよいだろう。
さて、Documents (以下Documentsと略)に掲載されている不法行為と称するものは、どのくらいかというと全体で、517件とかなり多い。しかし、このうち夜間に起った107件は、とても日本軍兵士によるものとは考えられない。というのは、電気が止まった南京の夜は漆黒の闇で、「夜の間は獣兵(注:日本兵のこと)は難民区の内外を問わず、活動する勇気がなく、−−−このときが、(難民の)活動の機会になった」(「南京陥落の悲劇」)と安全区に潜入していた将校である郭岐が後に手記で発表しているように、日本軍兵士は危険極まりない夜間に外出して非行を働くことなどできなかったのである。
また、517件のうち誰かが目撃したと記録されているのは、5%強の30件のみである。如何に伝聞・風聞を集めた不法行為リストかが分かる。殺人は合計で26件掲載されているが、これも伝聞であって、目撃のあるものは1件のみ。しかもこれは、潜伏兵がばれて逃げ出したのが撃たれたもので、委員会自身「合法的」と注記している。そうすると、不法殺害の目撃は「ゼロ」ということになるのである。殺人の狂乱どころではない。セントラルパークの広さのところに20万人がひしめいていた。40万の目があったはずであるが、それが目撃した不法殺害ゼロ、というのがこのDocuments の示すところである。(注[2])
人口は20万から25万に増加
Documentsでは、人口についてはどのように記録されているだろうか。
日本軍の攻撃が迫りつつあることを知った南京の人々は、脱出を始めた。政府自身が南京を撤退することが発表され、馬市長も12月3日には南京を去った。かつては100万を数えた南京の人口は、王固磐警察長官の発表によると12月初めには20万に減少していた。国際委員会は食料供給などの活動をこの20万という数字をベースに行っている。Documents には、12月中はずっと20万という数字が記録されている。(17日、18日、21日、27日)。1月14日には、これが25万となりその後これが続く。
すなわち、国際委員会のメンバーは、南京陥落によって安全区の人口が減少した、という認識を全く持っていなかったということである。王固磐長官の20万というのは、混乱時であるから、正確な統計とは言えないが、ベスト・ポッシブル・エスティメイトであろう。そして、国際委員会は12月中にはそこから大きな変化は生じていないと考えていた、ということである。安全区以外にも人がいたかもしれないではないか、という人があるかもしれないが、それは全く特殊な限られたケースだけである。Documents の9号文書(国際委員会から日本大使館への12月17日付けの手紙)で次のように言っている。「貴国部隊が本市に入城した13日、私どもは市民のほぼ全員を安全地帯という一地区に集合させていたーーー」(注[3])がその何よりの証拠であり、又入城した日本軍兵士の証言とこれは完全に符合している。(因みにアイリス・チャンは『ザ・レイプ・オブ南京』と言う本で、安全区の外に30万−40万の市民がいたと仮想して、虐殺されるべき30万−40万人を「創造」している。そうする以外には30万虐殺は成り立ち得ないのである。虐殺を5万、10万としても同じくその人口を「創造」しないと成り立たない。こんなインチキがまかり通るのは全く不思議である。)
1月になって、国際委員会が人口を25万に上方修正しているのは、一つは、年末に日本軍が行った住民登録、すなわち出頭した住民に「良民証」を発行したことによる。16万の登録があったが、10歳以下の子供と老婆を除いているので、それを加えると25万くらいになるとの計算である。もうひとつは、南京から疎開した住民が帰ってくるケースが見られ、増えつつあるとの感触であろう。殺人が横行しているところに帰ってくる馬鹿はいないので、安全になった証拠でもある。
反日のナチス党員ラーベのウソ
以上国際委員会の公式文書とでもいうべき Documents が示す南京の2ヶ月に比べて、ラーベはどんな描き方をしているのだろうか?
たとえば、陥落後の13日に市内を回ってたくさんの市民の死体を見た、と日記に書いている。しかし、市民は安全区に避難していて、外の街路に市民の死体がごろごろ転がっているはずがない。死体は、それまで戦っていた兵士のものでしかありえないのに、このような日本軍のせいにする書き方をしている。
その彼でさえ、さすがに市民が実際に殺害される場面には遭遇しなかったので、それを見たとまでは日記には書いてない。
ところがヒットラー宛の上申書では、とんでもないことを言っている。いくつか例を挙げよう。
「元兵士の疑いをかけられ、何千もの人が、機関銃或いは手榴弾で殺されました」
「ガソリンをかけられ生きながら火をかけられた」
さらに、Documents では人口は増えたと記録され、又彼自身でたった一件もあの狭い安全区で殺害を目撃していないにも拘らず、「中国側の申し立てによりますと10万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。われわれ外国人はおよそ5万から6万と見ています。」というに至るのである。これをウソつきといわずどこにウソつきが、と言いたくなるようなひどい話である。
更に中立地帯を管理する責任者であるはずのラーベは、12月12日夜、逃亡してきた龍大佐と周大佐をかくまっている。もう一人空軍将校汪漢萬を匿っていたことも日記に出てくる。要するに中立を装いながら完全な裏切り行為を行っていたと言うことである。
これが、人道主義者、南京のシンドラーなるラーベの正体である。親中であるとともに極めて反日的あったのは、日本を主敵として先制攻撃計画を蒋介石に提案していた、ファルケンハウゼンらの仲間であるから当然のことである。おまけに日本人に妙な優越感を抱いていたらしい。「私の場合、たいていは「ドイツ人だぞ!」或いは「ヒットラー!」と叫ぶだけでよかった。すると日本兵はおとなしくなるからだ。」などと日記に書いているのはその一端である。日本兵がドイツ語を理解するはずはないし、又日本人は人種差別主義者ラーベが考えるほどドイツ人に引け目など感じてはいなかった。
前にも述べたように、ドイツと防共協定は結んでいたが、「ユダヤ人差別せず」と言う明確な国策を1938年の12月6日に五相会議で決定している。この方針があったからこそ、杉原千畝は命のビザを発給して、5千人のユダヤ人を救ったのである。また満州国境オトポールでは大量のユダヤ難民をハルピン特務機関長樋口季一郎少将は救っている。ハルピンで開かれた極東ユダヤ人大会を、樋口少将が支援している。(注[4])
歴史偽造の時代ではない!
どうもナチス原罪に悩むドイツ人は、日本をナチス以下の戦争犯罪者であると貶めることによって、自己救済を図りたいようである。かつて日本攻撃プランを作ってやった盟友中国を、再びこの日本貶め計画の盟友に引き入れようというのが、「南京虐殺30万」を謳うプロパガンダ映画「ジョン・ラーベ」作成の真意なのかもしれない。
しかし、それはむなしい試みである。もともとがウソの記述に満ちているラーベの日記や上申書を元に更に予断によっておかしな日本軍像を描き出した映画に宣伝物以上の価値はない。しかも極め付きは、ラーベが委員長を務めていた「南京安全区国際委員会」の公式文書Documents of the Nanking Safety Zone では、南京の人口が増加したことを明確に記録しているのに30万虐殺!とはウソも限度を越えている。
30万虐殺に加えて「日本の右翼勢力は事実を認めていない」と書いている。しかし、これ右翼と言えば世界中から指弾されることを知っているものの常套手段である。事実に基づき、「Documents of the Nanking Safety Zone はこんなことは事実として書いてはいない」と書き換えなければならない。
更に、ナチスのユダヤ人虐殺と対照的に、当時の日本は「ユダヤ人対策要綱」という国策で「ユダヤ人差別せず」と言う方針を採用し、大量のユダヤ人を救済した。その日本に向かって、ナチス以下だなどというのはたわごとも過ぎる。
ナチスがやったように又共産中国がやっているように、「焚書」によってDocumentsを抹殺するか、ウソも100回言い続ければ本当になると言った宣伝マンの言葉を実行するか、それ以外にウソによる歴史の偽造は不可能であろう。今の世界でもそんなことが可能であると考えているとしたら、哀れを催すしかない。しかし、絶対にそれを許すことはできない。
[1] Documents of the Nanking Safety Zone, p. 1.
[2] Documents の詳しい分析は「原典による南京の解明」(冨澤繁信)を参照のこと。
“Using Primary Sources to Clarify the Nanking Incident” (Tomisawa Shigenobu) (http://www.sdh-fact.com/CL02_1/57_S4.pdf)
[3] Documents, p. 14 – 15.
[4] この件については、『ユダヤ難民を救った日本』(上杉千年)を参照のこと。
Japan That Helped the Jewish Refugees, Uesugi Chitose
http://www.sdh-fact.com/CL02_1/25_S2.pdf
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