原典による南京事件の解明
南京事件検証会
前会長
南京事件の真実を検証する会
監事
冨澤繁信
原典による南京事件の解明
―日本語版―
目 次
序文
“死の静寂”が支配した街
4.入城した日本兵の証言
附録 原著に表れた人口数の記事
引用文献目録
序 文
1937年、日中戦争が始まったが、その年の十二月日本軍が南京を占領するやいなや、日本軍兵士達は南京市民に襲いかかり、戦争には関係のない市民たちに強姦、殺害などの悪事を働き、殺害された人は捕虜の処刑を含めて、20〜30万人に及んだとされている。
これが世に言う「南京事件」であるが、この見解は『戦争とは何か』(*1)という本や、東京裁判(*2)の判決をそのまま受け取ったために起こったものと思われる。
『戦争とは何か』という本は日中戦争に中国軍が上海で敗北を喫して上海を退去し、更に南京でも惨敗したので戦時宣伝に力を注ぐようになって、中国側がつくった宣伝文書であった。すなわち中国国民党の中央宣伝部は一見公平な第三者を装ったマンチェスターガーディアン紙の記者ティンパーリに委嘱してこのプロパガンダ文書をつくらせたのである。良心的、第三者的な記述の陰に日本軍の戦争が侵略戦争であり、且つその悪逆ぶりな戦闘の仕方を世界にアピールしたのである(*3)。
太平洋戦争が終わると、アメリカ軍占領軍がまず第一に手がけたことは、日本の完全な物心両面においての無力化であった。物質的には日本の軍事的な戦闘能力を奪い、精神的にはWAR GUILT INFORMASION PROGRAMによって、日本の行った戦争が侵略戦争であり、またその戦闘行為が残酷であったことを力説した。そして日中戦争でこのことが端的に表れたのが南京事件であるとして、軍民合わせて20万人の虐殺説を強調したのである。以後これが世界を代表する日中戦争の見方となり、「南京事件」説が定着したのである。
筆者は約10年前、当時日本で手に入れることのできる「南京事件」に関する第一次資料を精査して、その中から「南京事件」に関係あるデータを可能な限り収集して(約6000個)、これをデータベース化してPCに入力し、これを縦横に分析して、南京事件の実像を求め、その結果を『南京事件の核心』として2003年に展転社から出版した。筆者はこれが南京事件の真実の姿、その核心ではないかとおもっている。
本論文はそのエッセンスを、簡潔な形で、原典を固定観念を捨てて、読むならばこういうことを言っているのだと言うことを、原典に沿って示したものである。是非とも海外の人に読んでいただきたく、英文を以て叙述した。
*1:ティンパーリ1938.
*2:極東国際軍事裁判、略して東京裁判とも言われた(1946.5月開廷、1948.11月判決)。日中戦争に引き続いて日本は第二次世界大戦を米国その他の連合軍と戦ったが(一九四一)、一九四六,九月降伏した。戦後この裁判で日本の戦争そのもの並びに戦争に伴う不法行為が批判された。
*3:北村稔 2001及び東中野修道 2006
第一章 南京事件の舞台
1.南京事件の一般的見方
東京裁判では南京事件を「南京暴虐事件」(英語ではRape of Nanking)と呼んで判決を下し、序文で示した如く日本軍が南京占領後南京全市で犯した犯罪として糾弾している。今少し詳しくその判決を見てみよう。判決ではつぎのようにいっている。
(判決 第八章)南京暴虐事件
中国軍は、この市を防衛するために、約五万の兵を残して撤退した。一九三七年十二月十二日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したので,一九三七年十二月十三日の朝、日本軍が市にはいったときには、抵抗は一切なくなっていた。日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵は同市を荒らし汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。・・・・・兵隊は個々に,または二,三人の小さい集団で、全市内を歩きわり、殺人・強姦・略奪・放火を行った。そこには、なんの規律もなかった。多くの兵は酔っていた。・・・・兵は街を歩き周り、中国人の男女子供を無差別に殺し・・・・遂には所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった(*1)。
*1:速記録(日本語版)p768
『戦争とは何か』ではマイナー・シール・ベイツは冒頭17頁において、ある外国人という名目で、日本軍入城直後の模様を次のように述べているのである。これは筆者がベイツレポートと呼んで、筆者が同書の基調報告と考えているものであるが、さらにこれは12月15日南京を去った外国人記者達に南京の実情を示すものとして、ベイツから手渡され、その後の南京事件報道の基調となったものである。
しかし二日もすると、度重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、婦女子への暴行を含む民家に対する統率を欠いた侵害行為などによって、事態の見通しは暗くなってしまいました。市内を歩き回った外国人は、通りには多くの一般市民の死体があったと報告しています。南京市中心部では昨日は一区画ごとにほぼ一体の死体が数えられました。死亡した一般市民の相当数は、日本軍が市内に入城した十三日の午後から夕方にかけて射殺されたか銃剣で刺されたものでした。恐怖にかられたり興奮したりして走り回った者や、通りや裏道で夕方過ぎに巡察隊につかまった者は誰でも、即座に殺されたようです。・・・・このことは、安全地帯でも他の場所と同様に行なわれていました。多くの事例が外国人や立派な中国人によりはっきりと目撃されています。
そしてこの後、略奪と強姦についても、同様なことが述べられている(*1)。
*1:ティンパーリ、17p
またこの文章は匿名で紹介されているが、それがベイツのものであり、且つ南京を離れようとする記者たちに手渡され,その後の南京報道に利用されたことについては筆者の『南京事件の核心』158頁以下に詳しい。
一般に「南京事件」は以上のように理解されている。すなわち日本軍の大軍が南京城内に乱入し、至る所で虐殺、乱暴を行った、と。
2 南京事件の実像
しかるに、驚くべき事に、この同じベイツが東京裁判の証人として法廷にたったとき、その冒頭陳述でこれと全く矛盾する次のようなことを証言しているのである(1946.7.29)。
サトン検察官が次のようにベイツに質問すると
この委員会(筆者注南京安全地帯国際委員会)は時々必要に応じ報告を致しましたか。
ベイツは次の様に答えた。
結局然し委員会の任務は非常に予期したものと違うようになりました。何となれば日本軍の南京攻撃は非常に敏速であり、占領も迅速でありましたが、占領後いろいろなごたごたが起こったのであります。民間人に対する待遇は非常に悪かったので、同委員長及び書記長は毎日定期的に折衝し,日本官吏に会見し,その内民間人に対して加えられた安全地帯の中で起こった非常な被害に関する毎日の報告を作成するようになりました。数週間の間に,数百の事件に関してまたこの事件の多くは多数の民間人を含む事件でありますが、こういう事件が文書あるいは口頭で日本の官吏に伝えられたのであります。*1
*1 速記録日本語版36号4p。ただしアンダーラインの部分は英文速記録にはあるが(p2626)、日本語版には欠落している。
? アンダーラインで示したように、ベイツ自身が東京裁判という公式な場面で、南京の事件が安全地帯の中の事件であることを認めて証言しているのである。(そしてこれらの事件が後日『南京安全地帯の記録』*という本に纏められているのである。)
*文献目録の“安全記録」参照
さらにベイツは、南京における日本軍の暴虐、虐殺を述べた前述の『戦争とは何か』の中で『南京安全地帯の記録』の事件をその証拠として引用したところで、次のようにはっきりと言っているのである(*1)。
*1:ティンパーリ、173p
次のことは注目されなければならない、即ちこのようにして報告された事件は南京安全地帯だけを包含しているのであって、南京のその他のところは一月末まで事実上無人地帯であって、その全期間の大部分外国人の観察者はいなかったのである。
すなわち、安全地帯以外の所では、住民もいなければ、外国人もおらず、事件など起こりようもなく、記録されようもないと言っているのである。
3 南京に入城した日本軍兵士の見た南京の実像−死の静寂の支配していた南京
南京に入城した日本軍兵士が体験したものは南京の実像「死の静寂」の支配している街」であった。これは次のような要因の複合として説明できる。
南京に残留していたアメリカ人を中心とする外国人達は「南京安全地帯国際委員会」を組織して、安全地帯という日中両軍に中立な地帯と彼らが宣言した所をもうけ、残留した二十万の南京市民をそこに収容し、予想される両軍の市街戦に伴う災厄から彼らを守ろうとした。委員会の主要なメンバーはアメリカ人で、委員長はドイツ人ジョン・ラーベであった。ジョージ・フィッチは『戦争とは何か』で次の様に述べている。
私たち南京安全地帯国際委員会は、百万の南京市民のうち市内にとどまった20万が事態切迫の際に避難できる場所として、兵士や軍事機関など一切置かず、爆撃も砲撃もされない市内地域を承認してくれるよう、中国軍・日本軍双方と交渉してきました(*1)。
*1:ティンパーリ、23p
このようにして安全地帯は設立され、憲兵と警察が一軒一軒安全地帯に移るように住民に勧告して回り、南京防衛軍司令官も12月8日に布告を出して、「非戦闘員の安全地帯への集結を求めた」ので住民も安全地帯へ転居するようになった(*2)。
*2:12.8 ダーディン特電南京発 ニューヨーク。タイムズ
かくて「安全地帯国際委員会」も次のように言うことができるようになった。
言い換えると、貴国部隊が本市に入城した十三日、私どもは市民の略々全員を安全地帯という一地区に集合させていたが、(*3)
*3:安全記録、14p
以上のように、南京城内では市民の数も20万人に減り、其れが「安全地帯」という所に集められたのである。逃げ遅れた中国軍兵士も安全地帯に隠れ潜んだのである。安全地帯は市の中心にあったが、面積は3.8平方キロにすぎず、南京の8分の1を占めているに過ぎなかった。ニューヨークで言えばマンハッタンのセントラル公園とほぼ同じくらいの所である。そこに20万の市民が詰め込まれて、生活をしたのであるから、その混雑ぶりは非常なものであった。これに反して安全地帯以外の所は、先に『戦争とは何か』の173頁で紹介した如く、人影が殆どなく、シーンとした「死の静寂」の支配した街であったのである。
?以上のような所へ、日本軍は入城したのであるが、攻略に当たっては、総司令官松井大将は全軍に「南京城攻略要領」及び「その注意事項」 を示達してこれを厳守させた。その要点を摘記すればつぎのようである。
1.各師団は全軍を一度に入城させるのではなく、選抜した一大隊ぐらいだけをまず入城させて、様子を見よ。
2.各師団に攻略場所を特定し、互いにこれを尊重させよ。(これにより住民、敗残兵が密集していた安全地帯は第9師団第7聯隊の担当するところとなり、他の部隊はすべて無人の所を担当することとなったのである。)
3.軍紀を厳正に保て。
以上の如くであったので、入城した各部隊が体験した南京城内は殆どが「死の静寂」が支配したところであったのである。
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