学力の必要性

2005年3月

 ゆとり教育の見直しが図られています。その政策について議論するつもりはありません。
 ともかく、それが学力を保留して別のことをまずしましょう、という動きから、学力を考えようという眼差しになってきた点を確認しておくことにしましょう。
 世界各国の中でも、もはや優秀だと言えなくなった日本の子どもたちの学力を憂い、先々国はどうなるのかとの思いも混じって、ゆとり教育という名の学力軽視の政策を改めようというふうに方向付けられてきているのです。
 
パンダ

 これから、入試問題が難しくなるかもしれません。
 教科書はこれまで、どんどん薄くなり、文章も短くなり、問題数も減ってきました。学習項目もガタ減りです。どうしてこんなことになったのでしょうか。
 その反動で、高校入試問題が、レベル的にも上がるかもしれません。そうした動きも始まっています。ですが、ただ単に入試問題を難しいものにすればいいというものでもありません。
 
パンダ

 国を愛することを、強制的にでも教え込まなければならない、と発言する政治家がいます。心で思っているだけの人もずいぶんたくさんいるのでしょう。
 しかし、これまで国を愛することを強調していた人が掲げたゆとり教育政策が、ここへきて問題化されています。愛国者たちこそが、学力を落としても平気であったというのは、なんとも皮肉なことに見えます。
 ゆとりという言葉を、勉強しなくてもいいという意味に向けて使ってきたのは、人気取りや選挙のためであるのか、そもそも民主主義というものがそういった性質をない方しているのか、私には判断がつかないので、カッコにくくっておくことにしましょう。
 
パンダ

 中学生を終えて、晴れて高校に入ったとき、教科書が格段に難しくなったように感じたことを思い出します。
 とくに、英語は雲泥の差でした。
 今でも、そうしたギャップに悩むのでしょうか。それとも、今では高校の教科書もまた易しくなり、あまりギャップを感じずに済むようになったのでしょうか。NHKの高校講座を見ても、格段にソフトになり、エンターテインメント豊かになったと感じるくらいですから。
 高校もまた易しくなつたとしましょう。それでも大学のレベルが変わらないなら、またギャップが生まれます。でも、そうした心配も、幻想だと多くの人が感じています。高校で生物を学んでいない医学生がいて、医師になるのです。物理を学ばなかった理工系の学生はざらでしょう。
 大学が、慌てて補習を行っています。高校の内容を教えようと努力しています。
 こうなると、日本の学問研究レベルが一段ずつ下がってしまうのは、火を見るより明らかでしょう。
 尤も、一部のエリートのすばらしさがあれば、学問水準が維持できるとするなら、一部の天才肌の学生を大切にしていけば、それはそれでよいのでしょう。インドなどの国がそうした方法で、世界の最先端を走っています。
 
パンダ

 教育関係のメールニュースの中で、小学生の父親の相談と回答が掲載されていました。
 おおまかに言うと、家庭教師に中1の男の子を頼んでいる。英語と数学を中心に指導して、高校はトップ校でなくてよいから先々東大に行かせたい。どうしたらよいか。そういう相談でした。
 丹羽健夫さんという回答者の言葉の中に、光るものがあると思いました、失礼ながら、一部を引用させてもらいます。
《今ひとつ気になることは、学校で勉強する教科というものは、便宜的に人間が作ったものです。知の領域のすべてではありません。難関大学、特に東大では教科の領域を借りはするものの、それを通じて受験者の知的バックグラウンドの広さや深さを見ようとしているように思えます。つまり、教科のたこつぼの中でのみ学習していたのでは、難関大学の入試は突破できないと思います。
 この知的バックグラウンドというものは、特に中学、高校時代の教科の勉強も大切ですが、それ以外にも、例えば教科とはあまり関係はないが、知的にひかれる本を読んだり、趣味を深めたり、友達との接触を通じたりして広がり、深まるものだと思います。》
 この、教科の区別を便宜上のものと捉え、知的な領域ではすべての教科がつながっている、というのは、私も同感なのです。そして私は、そうしたトータルな見地から、学力というものを捉えてみたいのです。
 
パンダ

 学力って、何でしょう。
 私はさしあたり、生きる上で何か問題にぶち当たったとき、それを解決するために自分の中に必要な能力のことである、と考えています。
 答えを選択肢の中から選ぶ能力でもないし、質問者の意図を見抜く能力でもありません。マークシートでは処理できない問題、時に解答のない問題にも、責任主体として解決の方法を引き受けるだけの容量を備えた人間でありたいと、私自身願っていることにも関係しているかもしれません。
 この能力を得るためには、幅広く経験を積んでいくことが必要だと考えます。それも、人から与えられやらされるのではなくて、自分から選んで。でないと、責任主体として立ち向かっていくことができないのですから。
 
パンダ

 素直に羊のように、あるいは鳩のように、従うべき実直さは必要です。一方、蛇のように賢く時に狡く策略を練る能力も必要です。
 しかし往々にして、素直にたとえば良心の声に従うことができず、他方権威者の言いなりにただ従うだけというのが、私たち人間の姿です。
 そういう能力を学力と呼んでいいのだろうか、と疑問に思います。しかし概して、知的エリートを育成し、国家のリーダーとなるようにと計画したのは、こうした能力をもつ人間を作り上げるためであった、とは言えないでしょうか。
 ある見方においては、学力とは、このような人間に備わっているとされています。
 でも、今の私は、必ずしもそうは思わないでいます。
 
パンダ

 数学の話に話を狭めましょう。
 数学は、純粋な思考訓練の場です。感情や感覚により判断するのでなく、純然たる論理によって解答が導かれます。あらゆる経験内容を捨象して、なお論理として妥当するか否かが問われる学習分野となっています。
 四則計算ならまだ分かるが、いったい数学など、何の役に立つのか、という悪口がよく囁かれます。
 でも、それを学ぶのは無駄ではない、と私は考えています。むしろ、あらゆる事態に応じて解決を考慮するときに、数学的枠組みの中で養った思考が、つねに働いているのではないか、と思います。論理を伴わない解決だけで済むことなど、例外中の例外ではないかとさえ思うわけです。
 数学の点数が伸びないと、嫌になり、数学が嫌いになる人もいるかと思います。でも、数学という、抽象思考の分野において考える訓練を怠らないように、考えることをやめないように、してもらいたいと願います。極端に言うと、たとえ正しい解答が得られなくても、点数が悪かったとしても、考え抜いたこと、考えることそのものの経験は、何にも代え難い豊かな経験として財産になってゆくと思うのです。
 
パンダ

 野球の投手というポジションは、マウンドの上で打者に対して球を投げる仕事の場です。内野手のように軽快に球を追いさばくこともなければ、外野手のように球を追って俊足を飛ばす活躍の場ともなっていません。マウンドでじっと振りかぶり投げるばかりです。
 しかし、投手は、人一倍ランニングをしているといいます。おそらく、最も走り込みをするのが、ピッチャーである、というらしいのです。
 鍛えた足腰をもっていなければ、球を投げ続けることができないようなのです。
 一見、走り回ることのない投手こそ、練習で一番走っている。ただ野球中継だけを見て、贔屓のチームが勝った負けたと騒いでいるだけのファンならば、そのことに気づかないでいるかもしれません。
 
パンダ

 数学も、そのランニングのようなものかもしれません。投手ばかりでなく、捕手も、野手も、皆のために、走り込みは役立ちます。走り込みをしなければ、選手として通用しないと言われるほどです。
 たしかに、ずっと走り続けることはしんどいだろうと思います。
 数学も、しんどい勉強です。時間も使うし、できないと焦ります。そして失望的な点数が返されてくる可能性は、数学が最も高いかもしれません。
 でも、私は信じているのですが、数学ほど、役立つ科目もないのではないか――。
 数学に挑むことで、「考える」頭をつくります。「考える」ことの効用を実感するようになります。「考える」ことで、問題解決のために必要な、いわゆる経験と、感覚を養うことができます。
 
パンダ

 創造力にしても、この「考える」ことなしには期待できず、空想力にしても、「考える」ことから逃れるわけにははゆきません。数学は、文学愛好者にも無意味な科目ではないと思います。
 ところで、国語も大切にしてください。考えるというのは、言葉を使って考えるものです。考えるための道具である国語、考える道筋そのものを養う国語は、どこか漠然とした授業であることもありますが、英語に圧されて影の薄い国語も、やっぱり考えることのためには非常に大切な分野として、積極的に関わってもらいたいと願います。

Takapan
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