証明問題は実はヒントなのだ

2004年7月

 中2の後半から、図形の証明問題が登場します。三角形の合同を代表とするシリーズです。

 証明は、国語でいえば作文をしろというふうに聞こえるもので、生徒たちは一様にイヤな顔をします。最初のうちは、長い証明の途中の穴埋めをするように要求されるので、まだついてくる生徒も少なくないのですが、大きな四角の空白が与えられるようになると、もう何から手を付けてよいのか分からなくなります。

パンダ

 厳密に言えば、中2の春にも、すでに証明問題は現れてきているのです。それは、計算問題の後半で、いわゆる応用問題ということがなされ、そこでたとえば次のような問題に出会うのです。

「奇数と奇数の和は偶数であることを説明せよ」

 二つの奇数を 2m+1,2n+1とおく。ただしm,nは整数とする。(2m+1)+(2n+1)=2m+2n+2=2(m+n+1) ここで m,nが整数であることにより m+n+1 は整数。ゆえにこれは偶数。よって、奇数と奇数の和は偶数である。

 これで、中2のほとんどがつまずきます。式の最後で、まだ習っていない因数分解をしなければならないという点も技能的に問題なのですが、それよりもとにかく論理の筋道――なぜこれで説明したことになるのかという理屈――自体が理解できないし、自分から発信することができないというわけです。

パンダ

 生活の中で、自分で自分の考えや行動に理屈をつけて説明しなければならない、といった状況がなくなったのでしょうか。子どもはしばしば、どうしてこんなことをしたのかと詰問されたとき、だって○○が○○になって、自分は○○なので……と理屈をこねるようなことをする性質がありますかつては。叱る大人の側としても、その理屈があまりに立派な場合には、思わず笑って許すということもありました。それが、今はどうでしょう。どうにも何もかもが感覚的になってきたし、大人も子どもに理屈を求めなくなったのでしょうか、それとも大人が子どもの理屈につき合う気力をなくしたのでしょうか、理屈を子どもに説明させるというシーンが激減しているような気がします。

 兄弟が多かったり、友だちと真っ向からぶつかったりするときには、何かと理屈で説明しなければならない事態が起こるはずです。自分の考えの結論がはっきりしていて、それを相手に説明するという場面が、生活の中から消えているようです。一人はっきりした意見をもっと「浮く」ことがないように、皆が周りの人間たちの顔色を見ながら外れないような曖昧な態度を取ることが知恵だと思われています。人がどう思おうと私はこう思う、という主張が、絶滅しかかっているのです。

 これでは、何のために証明するのかさえ、理解できないでしょう。もちろん証明をするということを人生で初めてここでしろといきなり言われて、戸惑うだけなのでしょう。

パンダ

 北九州のある小学校が発行しているメルマガによると、ディベート授業が頻繁に行われているといいます。討論会を行い、意見とその根拠を表現する訓練をしているのだそうです。ときにそれは、自分の思想に関係なく、君はある立場になりなさい、そのための理由を考えて発表しなさいと命じられます。これは、自分の考えを整理するとともに、相手の意見や理由に耳を傾けることにもつながります。

 いかにもアメリカ式の教育のようですが、こういう訓練を受けてきた子は、たぶん中学で証明する場面に遭遇しても、自然に受け容れられるものと予想されます。

 それくらい、その人の理屈に対する生活スタンスによって、証明への取り組みは変わってきます。せめて、中学生になって初めて遭遇しても、興味をもって、証明に取り組んでもらえればよいのですが……。

パンダ

 先の整数問題は、ふつう夏休みに入ろうかというころ、あるいは夏休みが終わったころに、じわじわと分かってくる子が増えて、半数を超えるようになります。そしてその子たちが図形で証明問題にまた出会うことになります。運悪く、その前に「一次関数」というものを学習します。これがまたネックなのですが、今はここに深入りしません。一次関数が、深い意味合いを問題にすることなく、マニュアルに従った操作を次々と行ってひたすら論理的思考だけでやっていくところも、ファジーな生活を送っている中学生たちにとっては、理解できない理由のようです。

パンダ

 入試などにおける図形の証明問題の一般的な形式は、カッコ付きの枝問が幾つか続くのが普通です。

 (1) △ABCと△ABEが合同であることを証明しなさい。

 (2) BEの長さを求めなさい。

 (3) ∠AEBの大きさを求めなさい。

 このような質問を見た生徒は、たいてい(1)でめげてしまいます。「証明……できん……」すると、もう(2)も(3)もどうせできないという気になって、がっかりして空白のまま残してしまうのです。

 しかしここで、「逆転の発想」が役立ちます。

 証明問題は、しばしばその証明の「結論」が重大なヒントとなって、他の問題を解くことができるようにできているものなのです。

 上の例では、もしも(1)の証明の仕方が分からないにしても、構いません。そこに書いてある「△ABCと△ABEが合同であること」は事実なのです。たとえ証明が自分の手でできなくても、「△ABCと△ABEが合同である」のだから、このことを使って他の問題も考えてごらんなさい、というふうに読むとよいのです。

 すると、(2)は、BEの長さというのは、その合同によりBCの長さと等しいことになりますから、BCが分かればそれを答えればよいということになります。(3)は、∠AEBを求めるのですが、その合同により∠ACBを求めてその数字を答えればよいことになります。

 普通なら、合同であるかどうかを自分で疑い、調べて考えてから、△ABCと△ABEが合同であることに気づいて、だから長さが等しい――として答えなければならないはずの(2)が、(1)が「合同ですよ」とヒントを与えてくれているために、解きやすくなっています。

 ですから、合同を証明しなさい、という(1)は、その合同をヒントして以下の問題を解きなさい、というラッキーな問題だと理解すべきです。「逆転の発想」を持ちましょう。

 そうすれば、入試で合格に必要なポイントを稼ぐことができるでしょう。

パンダ

 ただし、だからと言って証明問題を学習しなくてもよい、などと伝えるつもりはありません。努力は続けてください。入試云々を超えて、あなたが生きていくために、理屈で考え自分の考えを表明することが、必要だからです。


Takapan
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