

| 告森周蔵(こつもり しゅうぞう) | 文政3年〜不明(1820〜?) | |
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宇和島藩士 幼名は河原十太郎。後、治左衛門と改める。明治2年旧姓に戻り、5年に引退後は桑圃(そうほ)と号した。俳句に長じ宇和島の俳社「静幽廬」七世宗匠を継承した。人名辞典などでは桑圃と出ていることが多いが桑圃は引退後の号であるため、宇和島藩関係の業務の場合は周蔵を使用するべきであろう。 さて周蔵は天保14年家督相続。文久2年宇和島藩士十数名と上京し、京都御所の警衛にあたった。元治元年第一次長州征伐のため三机浦まで出陣。明治2年藩政改革において議事監察・参政を命じられ、版籍奉還後の宇和島藩権大参事に任命された。 |
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| 告森 良(こつもりはじめ) | 嘉永6年〜大正8年(1853〜1919) | |
| 告森周蔵の長男。宇和島御殿町に生まれた。穂積陳重と並ぶ秀才との誉れ高く明治6年神山県官吏となった。その後ひき続き愛媛県に奉職。明治11年岩村県令の人材抜擢により東宇和郡郡長を経て内務省に出仕、以来京都府・岐阜県参事を経て明治41年鳥取県知事に昇進。倉吉中学校、米子高等女学校、鳥取商業学校の新設など多方面にわたる事績をあげ、明治43年6月千葉県知事に転す。利根川改修工事は県史に残る大きな事業であった。大正2年6月退職して京都に隠棲して大正8年11月27日66歳で没した。 | ||
| 清水隆徳(しみずたかのり) | 文久2年〜昭和4年(1862〜1929) | |
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文久2年8月20日告森周蔵の二男として生まれた。宇和郡日土村の清水利三郎の養子となる。 明治10年北予変則中学(のちの松山中学)に学び、慶応義塾中津支塾に入る。川之石の第二十九銀行頭取になる。明治22年西宇和郡から県議会議員に当選。25年再選され鈴木重遠に誘われ立憲革新党に所属。27年同党から第三回衆議院議員選挙に第五区から立候補して当選。同年9月の選挙では落選したが、30年10月県議会選挙で県会議員に返り咲き、進歩党の代表として県会議長に選ばれたが、業務多忙のため31年県議を辞職。37年3月第9回衆議院議員選挙で再び代議士となる。41年の第10回選挙では落選したが、45年の第11回選挙では当選。憲政本党−国民党から大正時代には立憲同志会の結成に参加。大正4年の第13回総選挙では同志会から立候補して当選したが、大正6年の選挙では政友会に圧倒されて落選した。昭和4年10月21日、67歳で没した。 |
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| 谷口長雄(たにぐちながお) | 元治2年〜大正9年(1865〜1920) | |
| 元治2年4月6日告森周蔵の三男に生まれる。藩医谷口泰庵に望まれて谷口家の養子となる。松山中学を経て東京帝国大学医学部を卒業。その後愛媛県に戻り県立松山病院長を務め外科手術などの近代医学技術を導入した。28年熊本県立病院長として転任。翌年熊本医学校を創立し校長に就任。35年ドイツに留学。ベルリン大学で内科学、動物学を研究、帰国後風土病肺ジストマ及びフィラリア症の究明に努め39年に医学博士となった。大正9年1月14日54歳で没。熊本医科大学(現熊本大学医学部)の校庭には彼の功績をたたえて銅像が建てられている。(らしい) | ||
| 赤松 桂(あかまつ かつら) | 明治9年〜昭和18年(1876〜1943) | |
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告森周蔵の四男。高光村村長、愛媛県議会議員、宇和島市長。 高光村の旧庄屋赤松新吉の養嗣子となる。明治33年東京専門学校(現早稲田大学)政治科を卒業。村長、県議を務め、昭和11年7月宇和島市長に選任されたが13年3月任期途中で病気を理由に辞任。昭和18年8月26日66歳で没。 まあ、とにかく戦前の宇和島市長で任期を全うした人は少なかったと思う。市議会は党利党略で収まりが付かずまじめな市長は泣かされたのではないか。 |
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