告森(こつもり)

場所・宇和島市三間町音地

河川・四万十川上流・告森(こつもり)川



告森城跡と告森橋

おー、ついに四万十川の一部に足を延ばしたのか。我ながら感動した。
三間町と合併しなくても、鬼ヶ城の山から滑床に流れる水は四万十川
に流れるが、改めて合併した事の変化を感じる。

この告森と言う文字を正しく読める人は地元の人に限定されるだろう。
私も初めは何と読むのか判らなかった。

まず、基礎的学習を。地元の人ならこの山の頂上に戦国時代には
告森城があったことをご存じであろう。ん?知らない?かもね。

私が告森という姓を知ったのは宇和島市誌からであったが、そこに出てくる名前が
告森周蔵と告森桑圃(そうほ)と二つあった。同一人物、おそらく桑圃は号ではな
いかと思ったがそれ以外の情報は入らなかった。それから数年の歳月が流れた。

詳しいいきさつは省くが、以下の事実が判明した。

告森周蔵(こつもり しゅうぞう) 文政3年〜不明(1820〜?)

宇和島藩士 幼名は河原十太郎。後、治左衛門と改める。明治2年旧姓に戻り、5年に引退後は桑圃(そうほ)と号した。俳句に長じ宇和島の俳社「静幽廬」七世宗匠を継承した。人名辞典などでは桑圃と出ていることが多いが桑圃は引退後の号であるため、宇和島藩関係の業務の場合は周蔵を使用するべきであろう。

また告森を誤って(つげもり)と書かれているものがあるが瑕疵であろう。
なお告森氏に関しては
「家中由緒書」上巻の内、221頁(「享保六年由緒書、二」)、
河原治左衛門の項に
曽祖父告森二九蔵儀、土居式部太夫清良江被召仕、
三間告森之城ニ罷立候処、清良落城之後秀宗公宇和
嶋御拝地、御入部之砌二九蔵儀、段々被為聞被召出
相勤申候
と書かれている事をhasimoto氏より貴重なるご教示をいただいた。

さて周蔵は天保14年家督相続。文久2年宇和島藩士十数名と上京し、京都御所の警衛にあたった。元治元年第一次長州征伐のため三机浦まで出陣。明治2年藩政改革において議事監察・参政を命じられ、版籍奉還後の宇和島藩権大参事に任命された。
(愛媛県史−人物、ではかなり出鱈目な記述がある事に気がついた。告森周蔵の説明で「朝敵となった松山藩に向け出兵せよとの朝命を受けた云々」これはまったく嘘っぱちである、朝命は「土佐藩に出兵命令があり、宇和島藩は土佐藩支援」であり、松山に出兵させて欲しいと迫った宇和島に対しあくまでも土佐藩支援、ということであり、繰り返し要請した宇和島藩に土佐藩は迷惑し、しからば数名のみ松山城内に入っただけであり、延べ二千名余の宇和島藩兵は郡中でとどまったあと三々五々宇和島に帰ったと、郡中の商家記録にある)

告森 良(こつもりはじめ) 嘉永6年〜大正8年(1853〜1919)
告森周蔵の長男。宇和島御殿町に生まれた。穂積陳重と並ぶ秀才との誉れ高く明治6年神山県官吏となった。その後ひき続き愛媛県に奉職。明治11年岩村県令の人材抜擢により東宇和郡郡長を経て内務省に出仕、以来京都府・岐阜県参事を経て明治41年鳥取県知事に昇進。倉吉中学校、米子高等女学校、鳥取商業学校の新設など多方面にわたる事績をあげ、明治43年6月千葉県知事に転す。利根川改修工事は県史に残る大きな事業であった。大正2年6月退職して京都に隠棲して大正8年11月27日66歳で没した。
清水隆徳(しみずたかのり) 文久2年〜昭和4年(1862〜1929)
文久2年8月20日告森周蔵の二男として生まれた。宇和郡日土村の清水利三郎の養子となる。
明治10年北予変則中学(のちの松山中学)に学び、慶応義塾中津支塾に入る。川之石の第二十九銀行頭取になる。明治22年西宇和郡から県議会議員に当選。25年再選され鈴木重遠に誘われ立憲革新党に所属。27年同党から第三回衆議院議員選挙に第五区から立候補して当選。同年9月の選挙では落選したが、30年10月県議会選挙で県会議員に返り咲き、進歩党の代表として県会議長に選ばれたが、業務多忙のため31年県議を辞職。37年3月第9回衆議院議員選挙で再び代議士となる。41年の第10回選挙では落選したが、45年の第11回選挙では当選。憲政本党−国民党から大正時代には立憲同志会の結成に参加。大正4年の第13回総選挙では同志会から立候補して当選したが、大正6年の選挙では政友会に圧倒されて落選した。昭和4年10月21日、67歳で没した。
谷口長雄(たにぐちながお) 元治2年〜大正9年(1865〜1920)
元治2年4月6日告森周蔵の三男に生まれる。藩医谷口泰庵に望まれて谷口家の養子となる。松山中学を経て東京帝国大学医学部を卒業。その後愛媛県に戻り県立松山病院長を務め外科手術などの近代医学技術を導入した。28年熊本県立病院長として転任。翌年熊本医学校を創立し校長に就任。35年ドイツに留学。ベルリン大学で内科学、動物学を研究、帰国後風土病肺ジストマ及びフィラリア症の究明に努め39年に医学博士となった。大正9年1月14日54歳で没。熊本医科大学(現熊本大学医学部)の校庭には彼の功績をたたえて銅像が建てられている。(らしい)
赤松 桂(あかまつ かつら) 明治9年〜昭和18年(1876〜1943)
告森周蔵の四男。高光村村長、愛媛県議会議員、宇和島市長。
高光村の旧庄屋赤松新吉の養嗣子となる。明治33年東京専門学校(現早稲田大学)政治科を卒業。村長、県議を務め、昭和11年7月宇和島市長に選任されたが13年3月任期途中で病気を理由に辞任。昭和18年8月26日66歳で没。
まあ、とにかく戦前の宇和島市長で任期を全うした人は少なかったと思う。市議会は党利党略で収まりが付かずまじめな市長は泣かされたのではないか。

とにかく優秀な人が多かったのだろうな。

以上が告森氏の概容である。では橋に進むぞ。

 
二名を過ぎて切り通しを超えると告森城があった山が見えてきた。
ここは昔バイクで何回か走った事があった。
  
ここは昔は「二本松」と呼ばれ、道がついていたが、今は誰も登る人もなく
道も無いらしい、という古老の話であった。冬になったら登ろう。
  
この橋が告森橋、川が告森川である。
ちなみに国土地理院の2万5千分の一の地図には(つげもり)と書かれて
いた。困った事だ。更に困った事には千葉県の利根川改修工事に関して
当時の県知事の名前に間違ったふり仮名までつけられていた。
ここには「告森村=こつもりむら」があった事を国土地理院に知らせたら
しばらくして訂正する旨の丁寧なメールが来た。

  

   

ここまで丁寧にすれば間違える事はないだろう。

  
ほら、バス停の文字は私が作ったのではないぞ。

  

告森橋の下流に変わった名前の橋があったのでおまけに載せる。

 

  
久区里野橋=くくりのはしだそうな。

今回の橋物語は突然思いついた為にまったく下準備をしていなかった
ばかりか、橋物語に出す予定さえなかった。もっと宇和島旧市内のもの
を出さなければいけないのであるが、とっさに思いついただけなので、
この久区里野橋の名前の由来は全く判らない。後から調べよう。


音地の集落は静かであった。
音地の由来は、恩賞でもらった土地、蔭地、隠した土地、もしくは地
下に空洞があって<地面を踏んだ時に音がするからという説があるらしい。
この先の山は石灰岩が多く、山並みの向こう側には水が美味しい観音
水という地下水がわき出ているところがある。また、西予市高山では
石灰岩の露天掘りが行われており、この山も石灰岩台地四国カルスト
に繋がっているから、地下に空洞があると言う説が正しいのかもしれない。

余談ながら、四国カルストの東外れに「鳥形山」という石灰岩の露天掘りを
している山がある。高知市内からもその山を見ることが出来る。もぐって
確認したわけでは無いが、この山の地下から太平洋岸にベルトコンベア
で石灰岩を運んでいるらしい。これも二万五千分の一の地図で発見した。
旧葉山村に下りた所で一個所、国道439号線の上を通過しているらしい
場所がある。地図を詳しく見ると面白いものを発見する事がある。ジャンジャン。

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