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善壇と降筆についての紹介

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、愛国の風潮の活動とともに、ハノイ、近隣各省では、シャーマン性を孕んだ活動が出現した。それが降筆である。これは詩文の形式に基づいた文字による伝教の言葉を通した人間と各神霊間の接触形式である。  降筆の諸活動は常に善壇で演じられる。善壇は善を講じる地であると理解される。それは我々の統計に従えば、北部のほとんどの各省に99カ所ある。

1、 善壇
漢喃研究院に所蔵している降筆の詩文作品、フィールドワークの記録、Dao Duy Anh (1989) の回想録等によれば、1845年から1945年の時期に九十九の善壇が存在したことを知ることができる。この善壇は、善を説き、それを広め、各降筆経を創作、印刷し、秘蔵した。  この各善壇は、伝統に従って善について説き、道徳ある生き方を人に諭すのが主な役割だが、その一方で、越国民衆に対する愛国主義、運動の呼び掛けの役割も担っていた。特に各善壇では、人民の間に愛国の詩文が大規模にすばやく広められ、フランス植民地主義者に対する愛国運動となり、阮朝は何度も弾圧をはじめ、影響を取り除こうとした。  愛国心を鼓舞する呼び掛けのそばで、各善壇はあらゆる人に民族文化振興事業を何度も繰り返していう傾向もあった。ここでは民族文化振興は次のようなものがあった。伝統基準に従った文化生活の様式の維持建設、各歴史文化遺跡、国を救った各賢霊神聖、名人たちの歴史文化尊栄の補修創造。  この時期、南北の多くの歴史遺跡は尊造され、各神霊を崇拝し尊栄することが力強い風潮のように沸き起こった。  既述した99の善壇の中で、玉山殿は特に重要な地位にあった。玉山殿はハノイの中心部にあって多数の知識人(一般的に北河計士)の中心地であるだけでなく、宗教、文学、史学のような異なる多くの種類の本と同様に降筆経をもっとも印刷し、保存し、成立し、全面的に役割を果たした基礎でもあった。 各等経板玉山善書略抄目録(漢喃研究院図書館 資料番号A.1116)と高王経注解(AC.438)によれば、1845年から1945年までの百年もの間、ここには多くの異なる種類に属する246部の本があった。玉山殿は向善会の活動地で、北部デルタの至る所で大きな力を持つ中心のような役割を果たした。  玉山殿は向善会の活動地であり、降善は、旧暦の2日と16日に組織された。また、ここでは各シャーマニズムを通して各聖人の教えの言葉を請うために各降筆をしばしば組織した。さらに、向善会は今日まで残っている鎮波亭、玉山殿、筆塔、臺研等のような還剣湖地区周辺にある文化歴史遺跡の尊造、修補を組織した。1945年末、胡主席は向善会を訪問し、各会員と話し、諭した。「各老は既に高齢であるにもかかわらず、人々のために降善している。そのようなことは非常に大切なことである。私は幾らかご意見を申し上げたい。私は次のように考えている。最も大きな善事は愛国、愛民衆、最も大きな悪事は侵略と弾圧である。各老に次のように提議します。降善の時同胞に自由独立を守ること、生産を増やすこと、民主建設を奨励することが肝要である。」(1990年8月22日人民報)

2、 降筆
 統計に従えば、漢喃研究院図書館には漢字、字喃で書かれた降筆本が254版保管されており、164冊の本にまとめられている。その中に226の印刷物、28の手書きによるものがある。最も古い降筆経は關夫子経訓合刻(AC.408)で、150頁あり、ハノイの壽昌県河口殿で1825年に印刷された。我々は各要素、すなわち、順序、資料名、記録形式(手書きか印刷物か)、図書館記号、頁数、年代、印刷場所、各降筆詩文作者、降筆仙聖名ごとにこの各文版を順序立てて分類した。この統計によって、降筆活動周辺の興味深い多くの問題が詳らかになった。

2.1、降筆詩文には主に次のような二つの内容的特徴がある。
 まず第一に、愛国主義を呼びかける降筆である。この内容は場所で体現する。愛国を同胞に教え諭す各降筆神聖は皆、民族の烈女英雄(陳興道、二婆徴、婆趙、黄耀)、越南神殿の中の各神仙、各天女、各著名文化人(蘇我憲城、阮秉謙、馮克寛等)である。各愛国風潮の込められた内容は19世紀末から20世紀初頭の間に現れた。  第二に、降筆詩文には民族文化の振興と、新たな生活様式の建設、民智向上、腐俗反対、女性の地位向上、善行の勧め等があった。この内容は20世紀初頭の東遊風潮や維新風潮から、直接の影響によるものである。

2.2字喃で書かれ、民間で知己の文学体類を使用の降筆詩文
 大知識人が提唱と実現をする降筆活動は上流階級の富者のカンパ拠出があったが、しかし彼らは同胞群衆をも指導した。それゆえ、彼らは自らのために一つの形式を選択し、平民に懸命に説いた。これは字喃と人民が知己の各詩文体を用いて行われた。  実際、初期の頃には降筆詩文は漢字で書かれ、關聖、文昌のような中国の各文化人や各神聖の降筆の言葉であった。しかし時が経つにつれ、字喃で書かれ、既述したような越南の各文化人、各民族英雄、各神聖の降筆の言葉になった。字喃で書くことによって、多数の群衆にまで広がり、さらに口承によって特に文字を知らない人々や女性達にも広がった。  多くの相違する群衆にまで広がったために、仙聖、烈女英雄、各文化人の降筆は、平民の多数の語り言葉に非常に近い民間の詩歌体をよく用いた。それは六八、風謡、双七六、喝眈、喝吶(歌□壽)、寓話のようなものである。  その他に、人民群衆を助けるため、降筆した各神、聖仙、仏の姿は、多くの降筆経に挿し絵として描かれている。  また一般的には、降筆詩文は一つの文章地区で、かなり多くの資料がある。しかしまだどんな研究者も研究のためには訪れていない。愛国の内容、豊富な演達形式、心霊要素によって、降筆詩文は将来より多くの研究努力が必要である。

3.結論
3.1 降善活動は99の善壇でみられ、1895年から1945年の間北部各省のほとんどで降筆経版が伝えられ創作され、印刷され、所蔵された。
3.2 善壇は連続して力強く活動し、特にそれはハノイの玉山殿の向善会によって象徴される。特に、民族文化振興、向筆経の印刷と所蔵において大きな貢献があった。
3.3 現在、265冊中165の書名が明らかで、その中の254の資料中226までが印刷物である。年代については、降筆経は1870-1898、1906-1911年の間にその多くが創造され印刷された。勤王風潮、維新、東遊風潮の影響を受けたものだった。
 降筆詩文の内容はまた、まさに各善壇の活動をしめしている。それは広範な宣伝計画であり、歴史上の大変動の中における民族の二つの大きな問題にねらいを定めていた。それは愛国心の呼び掛けと民族文化振興であった。

以上 漢喃研究院 Nguyen Xuan Dien氏

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