仇討ち三態 その1

 越(こし)の御山(みやま)永平寺にも、爽やかな初夏が来た。
 冬の間、日毎(ひごと)日毎の雪作務(さむ)に雲水たちを苦しめた雪も、深い谷間からさえ、その跡を絶ってしまった。
 十幾棟の大伽藍を囲んで、矗々(ちくちく)と天を摩している老杉(ろうさん)に交って、栃(とち)や欅(えのき)が薄緑の水々しい芽を吹き始めた。
 山桜は、散り果ててしまったが、野生の藤が、木々の下枝(しずえ)にからみながら、ほのかな紫の花房をゆたかに垂れている。
 惟念(ゆいねん)にも、僧堂の生活がようやく慣れてきた。乍入(さにゅう)当時の座禅や作務の苦しさが今では夢のように淡く薄れてしまった。暁天の座禅に、とろとろと眠って、巡香の驚策(きょうさく)を受くることも数少なくなった。正丑(しょううし)の刻の振鈴に床を蹴って起き上ることも、あまり苦痛ではなくなった。午前午後の作務、日中諷経(ふぎん)、念経、夜座(やざ)も、日常の生活になってしまった。


                                                         菊池 寛
                                                      読みの底本;青空文庫ファイルより
 
                                                   (青空文庫の作成記録)
                                                     底本;「菊池寛 短編と戯曲」 文芸春秋
                                                                       1988年3月25日第1刷発行
       
                                                                 入力;真先芳秋
                                                                 校正;大野晋
                                                                 ファイル作成:野口英司
                                                                             2000年8月26日公開
                                                                             2002年1月23日修正 



                                       朗読 ;籾山久雄(音の図書室 音訳ボランティア)2002,3,5

仇討三態その 

         
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