霧の夜に

 霧の深い、暖かな晩だつた。誘はれるやうに家を出たKと私は、乳色に柔かくぼかされた夜の街を何處ともなく彷徨ひ歩いた。大氣はしつとりと沈んでゐた。そして、その重みのある肌觸りが私の神經を異樣に昂ぶらせた。私の歩調はともすれば早み勝ちだつた。――私達はK自身の羸ち得た或る幸福に就いて、絶えず語り續けた。それは二人の心持を一そう興奮させた。そして、夜の更けるのも忘れてゐた。
 「咽喉が渇いたね……」さう云つて、私達は或る裏通のカフエエにはいつた。丁度十一時を少し過ぎてゐた。
 それは全く初めての、見知らぬカフエエだつた。中は明りや飾りのけばけばしい割に、がらんとしてゐた。Kと私と、私達から二三卓を離れた暖爐の前の卓を圍む三人――その一人は外國人だつた――と、帳場の前に固つた四人の給仕女達と、それが廣い室内の人影で、如何にも冬の夜更けらしい寂しさを感じさせた。
 「ほんとに咽喉が渇いた。紅茶にしよう……」と云つて、私達は熱い紅茶を啜つた。
 暖爐の前の男の一人はもう可成り醉つてゐた。

南部修太郎

底本:「若き入獄者の手記」文興院
   1924(大正13)年3月5日発行
入力:小林徹
校正:柳沢成雄
ファイル作成:野口英司
2000年2月19日公開
青空文庫作成ファイル:

霧の夜に

朗読 籾山久雄

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