魔術

 ある時雨(しぐれ)の降る晩のことです。私(わたし)を乗せた人力車(じんりきしゃ)は、何度も大森界隈(おおもりかいわい)の険(けわ)しい坂を上ったり下りたりして、やっと竹藪(たけやぶ)に囲まれた、小さな西洋館の前に梶棒(かじぼう)を下しました。もう鼠色のペンキの剥(は)げかかった、狭苦しい玄関には、車夫の出した提灯(ちょうちん)の明りで見ると、印度(インド)人マティラム・ミスラと日本字で書いた、これだけは新しい、瀬戸物の標札(ひょうさつ)がかかっています。
 マティラム・ミスラ君と云えば、もう皆さんの中にも、御存じの方が少くないかも知れません。ミスラ君は永年印度の独立を計っているカルカッタ生れの愛国者で、同時にまたハッサン・カンという名高い婆羅門(ばらもん)の秘法を学んだ、年の若い魔術(まじゅつ)の大家なのです。私はちょうど一月ばかり以前から、ある友人の紹介でミスラ君と交際していましたが、政治経済の問題などはいろいろ議論したことがあっても、肝腎(かんじん)の魔術を使う時には、まだ一度も居合せたことがありません。そこで今夜は前以て、魔術を使って見せてくれるように、手紙で頼んで置いてから、当時ミスラ君の住んでいた、寂しい大森の町はずれまで、人力車を急がせて来たのです。

                                       芥川龍之介  魔術                                                            
                                                           (青空文庫の作成記録)
                                                      底本;「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
                                                                        1986年12月1日第1刷発行
                                                                        1996年 4月1日第8刷発行
                                                    底本の親本;「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
                                                                   入力;J.utiyama
                                                                   校正;かとうかおり
                                                           ファイル作成;野口英司
                                                                         1998年12月8日公開
                                                                         1999年11月1日修正
                                                朗読 ;籾山久雄(音の図書室 音訳ボランティア)2002,5,15   

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