蘭学事始

杉田玄白が、新大橋の中邸を出て、本石町三丁目の長崎屋源右衛門方へ着いたのは、巳刻(みのこく)を少し回ったばかりだった。
 が、顔馴染みの番頭に案内されて、通辞、西善三郎の部屋へ通って見ると、昨日と同じように、良沢はもうとっくに来たと見え、悠然と座り込んでいた。
 玄白は、善三郎に挨拶を済すと、良沢の方を振り向きながら、
「お早う! 昨日は、失礼いたし申した」と、挨拶した。
 が、良沢は、光沢のいい総髪の頭を軽く下げただけで、その白皙な、鼻の高い、薄菊石(あばた)のある大きい顔をにこりともさせなかった。
 玄白は、毎度のことだったが、ちょっと嫌な気がした。
 彼は、中津侯の医官である前野良沢の名は、かねてから知っていた。そして、その篤学の評判に対しても、かなり敬意を払っていた。が、親しく会って見ると、不思議にこの人に親しめなかった。

                                                       菊地寛
                  
                                                   底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
                                      1988(昭和63)年3月25日 第1刷発行
                                     入力:真先芳秋
                                     校正:丹羽倫子
                                 ファイル作成:野口英司
                                               2000年1月14日公開
                                    青空文庫作成ファイル:

              朗読 ;籾山久雄(音の図書室 音訳ボランティア)2002,10,25    
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