蒼穹

梶井基次郎

 ある晩春の午後、私は村の街道に沿った土堤の上で日を浴びていた。空にはながらく動かないでいる巨(おお)きな雲があった。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳
(いんえい)を持っていた。そしてその尨大(ぼうだい)な容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら茫漠(ぼうばく)とした悲哀をその雲に感じさせた。
 私の坐っているところはこの村でも一番広いとされている平地の縁(へり)に当っていた。山と溪(たに)とがその大方の眺めであるこの村では、どこを眺めるにも勾配のついた地勢でないものはなかった。風景は絶えず重力の法則に脅かされていた。そのうえ光と影の移り変わりは溪間にいる人に始終慌(あわただ)しい感情を与えていた。そうした村のなかでは、溪間からは高く一日日の当るこの平地の眺めほど心を休めるものはなかった。私にとってはその終日日に倦(あ)いた眺めが悲しいまでノスタルジックだった。Lotus-eater の住んでいるといういつも午後ばかりの国――それが私には想像された。
 雲はその平地の向うの果である雑木山の上に横(よこ)たわっていた。雑木山では絶えず杜鵑(ほととぎす)が鳴いていた。その麓(ふもと)に水車が光っているばかりで、眼に見えて動くものはなく、うらうらと晩春の日が照り渡っている野山には静かな懶(ものう)さばかりが感じられた。そして雲はなにかそうした安逸の非運を悲しんでいるかのように思われるのだった。


蒼穹
梶井基次郎
底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷
入力:j.utiyama
校正:野口英司
ファイル作成:野口英司
1998年10月20日公開
1999年8月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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朗読 音訳ボランティア 籾山久雄 2003,3,25

蒼穹

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