早春

大学生の中村(なかむら)は薄(うす)い春のオヴァ・コオトの下に彼自身の体温を感じながら、仄暗(ほのぐら)い石の階段を博物館の二階へ登っていった。階段を登りつめた左にあるのは爬虫類(はちゅうるい)の標本室(ひょうほんしつ)である。中村はそこへはいる前に、ちょっと金の腕時計を眺めた。腕時計の針は幸いにもまだ二時になっていない。存外(ぞんがい)遅れずにすんだものだ、――中村はこう思ううちにも、ほっとすると言うよりは損をした気もちに近いものを感じた。
 爬虫類の標本室はひっそりしている。看守(かんしゅ)さえ今日(きょう)は歩いていない。その中にただ薄ら寒い防虫剤(ぼうちゅうざい)の臭(にお)いばかり漂(ただよ)っている。中村は室内を見渡した後(のち)、深呼吸をするように体を伸ばした。それから大きい硝子戸棚(ガラスとだな)の中に太い枯れ木をまいている南洋の大蛇(だいじゃ)の前に立った。この爬虫類の標本室はちょうど去年の夏以来、三重子(みえこ)と出合う場所に定(さだ)められている。これは何も彼等の好みの病的だったためではない。ただ人目(ひとめ)を避けるためにやむを得ずここを選んだのである。公園、カフェ、ステエション――それ等はいずれも気の弱い彼等に当惑(とうわく)を与えるばかりだった。殊に肩上(かたあ)げをおろしたばかりの三重子は当惑以上に思ったかも知れない。彼等は無数の人々の視線の彼等の背中に集まるのを感じた。いや、彼等の心臓さえはっきりと人目に映(えい)ずるのを感じた。しかしこの標本室へ来れば、剥製(はくせい)の蛇(へび)や蜥蝪(とかげ)のほかに誰一人(ひとり)彼等を見るものはない。たまに看守や観覧人に遇(あ)っても、じろじろ顔を見られるのはほんの数秒の間だけである。……


                                                               芥川龍之介  早春
                                                         読みの底本;青空文庫ファイルより

                                                         (青空文庫の作成記録)
                                                         底本;「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
                                                                               1987年2月24日第1刷発行
                                                                              1995年4月10日第 6刷発行
                                                     底本の親本;「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
                                                                             入力;j.utiyama
                                                                             校正;奥西久美
                                                                     ファイル作成;野口英司
                                                                                       1998年12月11日公開
                                                                                       1999年 8月 6日修正



                                                        朗読 ;籾山久雄(音の図書室 音訳ボランティア)2002,3,1

        
                                                                                  早春
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